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故・大川博オーナーへの東映映画監督の恨み節/週べ回顧1973年編

 

 3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

その情熱を映画にも



 今回は『1973年2月26日号』。定価は100円。

 1971年に亡くなった東映の大川博オーナー。亡くならなければ日拓ホームへの身売りはなかったかもしれないし、逆に身売りを見ずして亡くなってよかった、という言い方もできるかもしれない。

 それほどフライヤーズを愛した方であり、また東映の本業である映画産業の衰退は激しかった。
 映画監督の山口和彦が「本業」側からフライヤーズを見たコラムがあったので一部を紹介する。

 山口は映画づくりにあこがれ、1959年東映に入社した方だ。
 しかし入社して2カ月はソロバンの練習、都内各映画館のモギリ、さらにはフライヤーズの応援にかり出される日々。もともと野球好きだったというが、それで東映フライヤーズが嫌いになったという。

 当時の大川社長を「(映画で)儲けた金を惜しみなくフライヤーズのために注ぎ込んでいた」と見ていた。実際、東映内では随分不満を持つ者もいたらしい。
「金は出すが口は出さない」と言っていた頃だろうか。

 東映は水原茂監督の下で1962年に日本一となり、背番号100のユニフォームを着てはしゃぐ大川オーナーも話題になった。
 
 しかし、そのあと徐々に低迷。映画産業もまた、急速な斜陽化が進んだ。球界では東映が補強資金をけちり出したと言われたが、会社内の声としては「大川社長は再建に力を入れることなく、夢よもう一度とカネを球団につぎ込み、毎日のように球場に出かけていた」となる。

 このときの社内の雰囲気をこう書いている。

「そんな大川社長の姿に、我々は映画作りに対する情熱の一片すら見ることができず、一体、社長はこの斜陽の映画を、どうするつもりだろうと、彼に対する疑念を持つとともに、社長不信のムードが我々、下っ端社員の間に漂い始めたのも当然のことだった」

 大川社長は会社再建のために映画現場の合理化を進め、結果的に労働環境が悪化。たびたび社員から待遇改善を求める声があったが、跳ねのけた、というか財政的な余裕がなかったのだろう。

 山口は「彼が野球場へ運ぶ足を半分にして、その情熱と真剣な態度で映画に取り組んでいたなら、日本映画もこれほど悪い状態に陥らずにすんだかもしれないし、東映フライヤーズも身売りされるはめにならなかったかもしれない」とある。

 ただどうだろう。映画に打ち込むならもっと早く球団経営から撤退していただろうし、一度つぶれかかった会社は、ブラックホールのように、あらゆるものを吸い込み、何も生み出さないことが多い。
 いずれにしても時間の問題だったのではないかとも思う。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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