月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2021年2月号では日本ハムファイターズに関してつづってもらった。 タコみたいにフニャフニャとして
日本ハムには印象深い選手が何人かいた。まずは
島田誠だ。身長168センチと小柄だったが、足が速くてセンスがあった。1979年には55盗塁をマークしていたが、タイトルは獲れなかった。当時、阪急には“世界の盗塁王”
福本豊さんがいたからだ。しかし、島田の盗塁はすべてサインだったという。福本さんは当然、ノーサイン。当時の
大沢啓二監督に「ノーサインだったら80個は走れる」と豪語したそうだ。
西武戦では「サイクルスチール」も達成。西武の捕手が
野村克也さんで、二盗、三盗を決め、最後は野村さんが後逸して本盗で達成した。
80年から83年に所属した
ソレイタ、80年から85年に所属したクルーズも素晴らしいバッターだった。ソレイタは太い腕っぷしから本塁打を量産。80年には45本塁打、81年には44本塁打と2年連続で40本以上をマークし、81年にはタイトルに輝いている。その半面、三振も100を超えたが、それがまた魅力だったのは間違いない。
クルーズもヘルメットを飛ばすほどの豪快なフルスイングを見せたが、在籍6年間で4度の打率3割をマークする巧打者だった。三振も6年間で計220個。1年あたりに換算すると約37三振と確実性があった。クルーズはネクストで打席を待っているときに、ペッとツバを吐いて、それをバットでパチンと打つということもやっていた。それを見て、「すごく器用だな」と感心したことも思い出される。
広瀬哲朗は憎めないキャラクターをしていた。西武球場で試合前、西武が練習を始めるときに、なぜか一塁ベンチへ広瀬はよくやってきていた。一塁ベンチに座りながら、広瀬は「伊原さん、ここに座ると相手が弱く見えますね」なんて言う。さらに「僕が打つときにライトを前に出さないでくださいよ」。右打ちが得意だった広瀬だが長打力はないため、ライトの
平野謙が前のほうに守り、ライトゴロを完成させたことがあったが、それに対しての“抗議”だった。
金子誠も印象深い。94年にドラフト3位で常総学院高から日本ハムへ入団した金子。96年から2001年までは二塁手、02年から12年までは遊撃手として内野陣を牽引したが、特に二塁守備は絶品だった。とにかく体の柔らかさが抜群。守備の名手と言われた
辻発彦(西武)はヒザが硬く、腰高だったが、金子はそんなことはない。タコみたいにフニャフニャとしていて、どんな体勢で捕球してもしっかりと投げる。もちろん、ハンドリングなども優れ、安定感がある。私が見た限りでは二塁守備は歴代でもNo.1だったと思う。
04年から日本ハムは本拠地を札幌に移転したが、以降17年間で5度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いている。“後楽園ファイターズ”の面影はないが、それも仕方がない。時の流れだ。23年には北
広島に新球場が完成し、さらに忘却の彼方へと追いやられてしまうかもしれない。しかし、あのときがあっての今だ。球団には東京時代の記憶も大切にしていってもらいたい。
写真=BBM