2016年、ガンのステージ4の宣告を受けながら、うつむくことなく、前向きに病気と闘い続けた
大島康徳さんだったが、6月30日に都内の病院で死去したことが7月5日に分かった。70歳だった。
大島さんは現役生活26年を誇る鉄人だった。ただ、1969年ドラフト3位で中日入団直後から並外れたパンチ力を見せたが、あまり器用ではなかったこともあり、安定した成績を残すのは時間がかかった。1、2年目は一軍出場なし。それでも26年の現役生活で、2204本の安打を積み上げた遅咲きのスラッガーだった。
中学時代はバレーボールの選手で、本格的に野球を始めたのは、中津工高時代から。投手として中日に入団したが、
水原茂監督に言われ、すぐ野手に転向している。
入団3年目、1971年6月17日の一軍初出場(
ヤクルト戦・神宮)では右中間に2ラン。同年ジュニアオールスターでもMVPとなっているが、スタメンで出るとなかなか安定して結果が出せず、「そろそろファーム落ちかなと思うとポンと一発が出る繰り返し」(大島さん)だった。レギュラー定着前の76年には、代打の切り札としてシーズン代打本塁打記録の7本をマークしている。
ターニングポイントは27歳で、2つ上の兄・隆さんが亡くなったこと。「このままではダメだ」と強く思うようになり、「基礎練習からあらためてきっちりやった」という。
翌77年、定位置を獲得し、79年には5試合連続本塁打を含むリーグ最多の159安打を放ち、打撃3部門でいずれも
巨人・
王貞治を上回りながら一塁のベストナインはならず。ただ、大島さん自身、「王さんは雲の上の人。悔しくはない」と振り返っている。
83年には36本でホームラン王。この年、7月末には13本差あった
山本浩二(
広島)に追いつき、途中からバース(
阪神)にも追い上げられたが、10月に8本塁打を放ち、山本と並んで初タイトルを決めた。
日本ハム時代の90年、2000安打を達成
88年には日本ハムに移籍し、90年8月21日
オリックス戦(西宮)にはいずれも当時、史上最も多い試合数、2290試合をかけ、最年長39歳10カ月の2000本安打を達成した。
94年、代打出場が大半ながら「配球が読めた。打席に入るのが楽しかった」と打率.323の高打率を残したが、同年限り、44歳で引退。内、外野の両方で1000試合以上に出場という珍しい記録も持つ男だった。
野球解説者を経て、再びユニフォームを着たのが、2000年、日本ハムの監督としてだ。3年で退任し、06年には第1回WBCで打撃コーチも務め、世界一に貢献している。
写真=BBM