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プロ野球はみだし録

「ここを平和の台場に」と九州は福岡に誕生も……平和台球場“事件簿”【プロ野球はみだし録】

 

ライオンズvs.オリオンズ


平和台球場


 終戦から4年の1949年。九州は福岡に完成し、「ここを平和の台場に」という願いが込められ名づけられたのが平和台球場だ。翌50年の2リーグ分立でプロ野球に参加した西鉄(現在の西武)の“野武士”たちが本拠地として、江戸時代まで福岡藩が藩庁を置いていた福岡城の跡地でもあり、まさに“城”だった。まだまだ戦争の爪痕も各地に色濃く残っていた時代、戦前は軍隊の施設が置かれた場所で、切実な悲願の「平和の台場」だったが、皮肉にも幾多の事件が生まれてしまう。

 正式に西鉄の本拠地となった52年には早くも事件が勃発。その名も“平和台事件”だ。7月16日の毎日(現在のロッテ)戦は、朝からの雨で試合の開始が遅れに遅れ、当時は照明の設備もなく、リードされた毎日が日没ノーゲームを狙って露骨な遅延行為をはたらき、これに激怒した観客がグラウンドに乱入。警官隊だけでなく、福岡に駐屯していた米軍までが出動して、混乱は深夜まで続いた。

 西鉄が初めてパ・リーグを制した54年には、日本シリーズで対する中日ベンチの前に人糞が盛られる騒動もあったが、これについて詳しくは別の機会に。こうした続発するトラブルの一方で、当時は城壁の跡によじのぼって試合を遠望する“タダ見”の観客も多く、「気をつけてご観戦ください」というアナウンスが流れ、70年代に入ると、いわゆる“黒い霧事件”もあって低迷が続いた西鉄の人気が急落、比喩ではなく、数えられるほどの観客が客席で酒盛りをしている光景が名物のようになるなど平和な印象が漂う光景も見られた。

 だが、チームが太平洋となった73年、6月1日からのロッテとの4連戦で、歴史は繰り返される。ともにチーム名は変わっていたが、21年前と同じカードともいえ、ある意味では“遺恨”の再燃だったのかもしれない。平和台での大混乱は川崎や県営宮城にも飛び火して、“遺恨試合”の様相は翌74年まで続いた。そのライオンズが78年オフに埼玉は所沢へ去り、10年後の88年オフには新たにホークスがダイエーとなって本拠地としたが、92年10月1日の近鉄戦が最後の公式戦に。現在は西鉄OBが設置した記念碑が残る。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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