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パンチ佐藤の漢の背中!

“究極の万能選手”五十嵐章人氏。NPBとBCリーグをつなぐビジネスで手腕を発揮/パンチ佐藤の漢の背中!

 

現役時代は「全ポジション出場」「全打順本塁打」を達成した究極のユーティリティープレーヤー。引退後も器用にいくつかの職を経て、現在はNPBとBCリーグをつなぐビジネスにその手腕を発揮している。そんな五十嵐章人さんの職場を、パンチさんが訪問しました。
※『ベースボールマガジン』2021年1月号より転載

プロで全ポジションと全打順ホームラン達成


パンチ佐藤氏(左)、五十嵐章人氏


 パンチさんと五十嵐さんの出会いは、社会人野球時代。パンチさんが武相高−亜大の先輩で、当時日本石油に在籍していた鈴木慶裕さん(のち日本ハム)に挨拶に行って、言葉を交わしたのが最初だった。

「面白い人だなあと思った」という五十嵐さん。その後、パンチさんは1990年ドラフト1位でオリックスへ。五十嵐さんは翌91年ドラフト3位でロッテ中日の2球団競合の末、ロッテに入団。プロ入り後も、試合で会えば話の弾む仲だった。

パンチ 五十嵐君といえば、(スタメン)全打順ホームランと全ポジション出場だよね。個人的にはどの打順、どのポジションが一番好きだったの?

五十嵐 個人的に好きな打順は、一番ですね。僕、足は速くないんですけど……。むしろ遅いほうなんですけど、一番が好きでした。やっぱり誰よりも最初に打席に入りたいですからね。

パンチ キレイなところでね。

五十嵐 はい。僕、一番で1本しかホームラン打っていないんですが、それがビジターの先頭打者で、郭泰源(西武)からだったんです。

パンチ すごいな、郭泰源なんか、そう簡単に打てないよ。

五十嵐 それはとても印象に残っていますね。

パンチ プレーボールの1球目でホームランなんていったら、ますます漫画みたいでカッコいいよね。

五十嵐 ピッチャーが先発でキレイなマウンドに上がりたいって言うのと同じで、やっぱりキレイな打席に立って……。

パンチ (足で)穴ぼこ掘ってさ。

五十嵐 (笑)。

パンチ 一番好きなポジションは?

五十嵐 ピッチャーが楽しいんですけど、実際プロ野球選手としてと言われたら、僕は二遊間ですね。二遊間は面白い。でも、どのポジションもそれぞれ面白さと難しさがあるじゃないですか。草野球だとファーストはあまり上手じゃない人が守ったりするけど、実はファーストって難しい。やることは多いし、ベースを踏んでボールを受けるのも慣れていないと、難しいですよね。

パンチ 五十嵐君みたいに器用な選手は、バレンタイン監督とか仰木さんみたいにポジションや打順を動かす監督だったから、なおさら輝いたのかもしれないね。

五十嵐 そうかもしれないですね。本当、そういう面では人と人との出会い、運、そこは僕、自分でも運がいいなと思います。そんなに真面目にやってきたわけでもないんですけどね(笑)。

97年まで所属したロッテでの背番号は、福浦和也の前の9番だった


パンチ ロッテで7年やって、一番の思い出は何?

五十嵐 1年目の金田(正一)監督のインパクトが強烈で……(笑)。

パンチ 俺、金田監督好きなんだよね。キャンプのときなんか、練習終わったらもう飯食っておしまい、でしょう。なんかインチキ自主トレみたいなのさせないじゃない。オリックスでは?

パンチ オリックスではやはり、ピッチャーをやったときですかね。僕、それまで8ポジション守っていて、あとピッチャーだけだったんです。それで新聞記者の方に「仰木さんにネタを入れておいてくださいよ」とお願いしておいたら、それを聞いた仰木さんが後日、「いつかやらしたるからな」とおっしゃいましてね。公式戦中、3試合ほどブルペンに行って、そのうちの1試合、本当に上がらせてもらいました(2000年6月3日、近鉄戦)。

パンチ 球種は何を投げたの? 結果、どうだった?

五十嵐 真っすぐとスライダーと、レベルは別にしてフォークも投げました。試合では真っすぐとスライダー。ほとんど真っすぐでしたね。無死三塁から行って、犠牲フライを打たれましたけど、自責点はゼロ。記録的には生涯防御率0.00なんです(笑)。

パンチ 最高のピッチャーだね(笑)。全ポジションと全打順ホームラン、どっちもオリックスで達成したんだっけ?

五十嵐 全打順ホームランは、最後の八番だけ近鉄で達成しました。

パンチ 狙ってた?

五十嵐 いえ、例えば四番はオリックス時代の1試合しかないんですけど、そのときホームランを打って、「あと八番だけですね」と新聞記者に言われ、初めて気が付きました。あのときはニールもいたから、試合前「おい五十嵐、今日四番な」と言われて、新聞社のカメラマンの方に「スコアボード撮っておいてください」って初四番のほうを喜んでいたぐらいで、ホームランの記録はまったく頭になかったんです。でも仰木さんのすごいところは、最後あと八番だけになったとき、「五十嵐、俺がお前を八番スタメンで使ったときは、全打席ホームランを狙え」って言うんですよ。ヒットなんか狙うなって。だからバットも長いのをブンブン振り回していました。

パンチ そんな監督、なかなかいないよな。で、近鉄に行ってから八番スタメンで、ホームランを打ったんだ。

五十嵐 1年目に打ちました。

パンチ やっぱりさ、なんかツイているというか、持ってるね。

五十嵐 それがなぜなのか、意識したことはないんですが……。「運も実力のうち」といえば、実力の中に運がある感じですよね。だけど、僕は逆だと思っているんです。運の中に実力があって、運を大きくするために努力して、実力も大きくする。そのぐらい運のほうが大事なんじゃないかと思っています。講演なんかでも、よくそう言っているんですよ。

スポーツ新聞に自ら売り込み評論家に


オリックス時代の2006年6月3日の近鉄戦(大阪ドーム)では大量リードされた敗戦処理で登板し、全ポジション出場を達成


パンチ どういう形で引退することになったの?

五十嵐 ホームランの記録を春先に作ってからは成績が悪かったので、ずっとファームに落とされて。次の年は、分かるじゃないですか。これはもう、無理だな、と。それで夏ぐらいには、自分から言おうと決めていました。

パンチ 引退後のことは、どんなふうに考えていた?

五十嵐 まったく考えていなかったです。男なんだから、根性見せればなんとかなるだろうって(笑)。

パンチ どこかに就職しようとか、トライしてみなかったの?

五十嵐 就職はせず、野球解説をしていました。でも解説といってもCS放送だけだったので、食っていけないんですよ。だからあとはスポット的に野球教室とか臨時コーチとかでなんとか食いつないで……。いや、実際、食いつなげていなかったんですけど(苦笑)。その2年目に今の家内と一緒に暮らすようになって、ふざけるんじゃないわよと尻を叩かれて(笑)。夜、大阪・北新地のカラオケバーのようなところでアルバイトを始めました。

パンチ 店に出ていたの? お客さんに「あれ? 五十嵐選手じゃない?」って声を掛けられなかった?

五十嵐 基本的に声は掛けられなかったですが、たまに野球選手も来るわけです。だいたいが後輩ですよね。当時はまだ変なプライドがあって、後輩に「いらっしゃいませ」と言うだけでも大変だった。そういうところまで家内にもお店の人間にもズタズタに引き裂かれて、社会勉強をさせてもらいました。

パンチ そこでプライドを捨てて、いろいろ我慢しながら頑張ったわけだね。もう恥ずかしいことも失うものもないよって感じになったんじゃない?

五十嵐 知り合いに間に入ってもらって、大阪サンケイスポーツに仕事くださいって行ったんですよ。そうしたら、当時その決定権のある人が、「お前みたいなヤツ、珍しいな。自分から飛び込んできて売り込みをかける評論家なんか、なかなかいない。その熱意を買った」と言って、採用してくれました。大阪サンケイはだいたい阪神OBが評論家になるのに、大抜擢してもらって八木裕さん、星野伸之さんと一緒に評論をしました。

パンチ それは奥さんに感謝だね。奥さんが背中を押してくれなかったら、ウジウジしていたかもしれないもんね。

五十嵐 だからどんなに尻に敷かれようが、もう感謝しかないです(笑)。

 このあと五十嵐さんは、一度NPBに戻っている。福岡ソフトバンクの二軍外野守備走塁コーチ。同じパ・リーグにいたとはいえ、現役時代はソフトバンクとは縁がない。直接連絡してきたのは、近鉄時代にマネジャーを務めていた福地(経人)さん。当時、ソフトバンク管理部長の職に就いていた。

「それにしても、なかなか珍しいよ」と周囲に言われ、五十嵐さんはあらためて自分の運の強さを感じたという。

 二軍のグラウンドで若い選手たちとともに汗を流し、彼らを一軍へいかにして送り込むか、頭を巡らせる日々は、5年間続いた。

NPB二軍コーチからBC監督、GMを歴任


パンチ 「俺が育てた」じゃないけど、五十嵐君の助言を受けながらうまく育った選手っている?

五十嵐 中村晃柳田悠岐長谷川勇也、今ロッテにいる福田秀平あたりが一緒に入った世代なんですよ。選手には基本的に、「誰々のおかげで」と思わなくていいと言っていました。だって、やるのは自分たちなんだから。

パンチ やるかやらないかだもんね。

五十嵐 試合に出て打つのはお前ら、ボールを捕るのもお前ら。俺は手伝えないよ。だから、手柄はみんなお前らのものだ。その代わり、ダメなこともお前ら自身の責任だぞ、と教えました。でも一人だけ、長谷川のバッティングに関しては僕、イチからいじりました。

パンチ 長谷川は最初、どんな感じだったの?

五十嵐 最初は右足をグーッと高く上げて、勢いでドーンッと打つバッターだったんです。だから真っすぐにはめっぽう強いんですが、変化球への対応は高校生並み。そこで右足のところにスプレー缶を置いて、それを足で蹴って倒してからスイングしろ、と。そんな地味なところから初めて、何種類か練習方法を教えました。そうしたらアイツ、すごい練習の虫なので、完璧にできるようになるまで練習し続けました。それで一軍に行ったら、すぐ3割打ったんです。

パンチ すごいじゃない。

五十嵐 ところがアイツ、自分の世界に入っていろいろ考えちゃうので、またバッティングが変わったんです。秋山(幸二)監督が「一度二軍に落とすから、五十嵐、話をしてやってくれ」と。そこで一緒にご飯を食べに行って、「お前のよさはなんだ。今はこうなっているだろう」「もう一度、これを思い出せ」と話をしたら、翌年首位打者を獲りました。

パンチ 最高の思い出だね。そこからBCリーグに行った経緯は?

五十嵐 ソフトバンクを解雇されて、さあ次、どうしようと思ったとき、出身地・群馬のダイヤモンドペガサスの監督が代わる、という話を聞いたんです。一度監督をやってみたいと思っていたので、ぜひやらせてくださいとお願いしました。だけどいざやってみたら、自分は監督に向いていないと分かりました。

パンチ そうなの? どこが向いていないの?

五十嵐 なんでも気が付いたらすぐ言わないと済まないんです。BCリーグはスタッフが少ないから、言わなければいけないこともあると思うんですが、選手がビクビクしてしまって……。

パンチ 昔の子ならいざ知らず、今の子は難しいのかもね。

五十嵐 それで、群馬のスポンサーをしていた人が「熊谷で新しいチーム(武蔵ヒートベアーズ)を立ち上げるから、一緒にやろう」と誘ってくれたとき、「僕はユニフォームを着ないで、背広組としていろいろ動きたい」と言ってGMに就きました。

パンチ そして僕を宣伝本部長にって言ってくれたわけだね。

五十嵐 本当は僕、パンチさんに監督になってほしかったんですけど……。でもチームが窮地に立ったとき、立ち上げにかかわった当事者、GMとして、血の入れ替えが必要と判断して身を引くことになり、ついに叶いませんでした。

野球の人材派遣で新たな手腕を発揮


現在はエイジェックスポーツマネジメント事業連携統括本部スポーツ文化PJチーム部長


パンチ そのとき野球はもういい、と思った?

五十嵐 いろいろな方に迷惑をかけましたから、野球界に戻るのはやめようかと思っていたんですが……仕事を探す中、このエイジェックの社長に相談をしたところ、「お前、野球ぐらいしかできないだろう。(栃木県)小山に来て野球に関わるんだったら、仕事をさせてやる」と言われました。

パンチ ここ(エイジェック)は人材派遣の会社でしょ。どこから社長とラインがつながったの?

五十嵐 エイジェックがBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスを運営している関係で、知り合いました。それで小山に新しく立ち上げた社会人の男子、女子野球部両方のコーチを任されました。だから、この会社に来て最初の2年はずっとグラウンドで真っ黒になっていたんですよ。

パンチ 野球をやめてもいいと思っていたのに離さなかったんだな、野球の神様が。元西武の根本(陸夫)管理部長といったら言い過ぎかもしれないけど、武蔵といい、君はゼロから作る人なんだよ。それで、今はまた背広組に戻ったの?

五十嵐 今は(グループ会社の)エイジェックスポーツマネジメントでNPBにバッティングピッチャーやブルペンキャッチャーを派遣で送り込む仕事をしています。あとはキャンプのとき、いろいろお手伝いをするアルバイトとか。キャンプのみの派遣もあれば、年間契約もあります。

パンチ その人たちは、元野球選手?

五十嵐 BCリーグを辞めて、セカンドキャリアとしてNPBのバッティングピッチャーなどをする形です。キャンプには現役が行きます。

パンチ どこからそういう発想が出たの?

五十嵐 最初の大命題は、NPBとのパイプ作りをすることだったんですね。そうした中で、キャンプになるとNPBの球団から「バッティングピッチャーいない? 困っているんだよ」という話がよくあるじゃないですか。それだったら、そういう派遣の仕事を作ったらどうですか、と。

パンチ 今、実際NPBに派遣しているの?

五十嵐 横浜に年間契約のバッティングピッチャーが1人と、オリックスとロッテにブルペンキャッチャーが各1人、毎月払いの派遣で行っています。ロッテの春季キャンプにも、BCリーグの選手でチームを作って、お手伝いのバイトに丸々送り込みました。

パンチ だけど、それじゃあBCの選手は練習できないじゃない。

五十嵐 練習は、ロッテの選手の練習後、室内を開放してもらえるので、そこでやりました。

パンチ じゃあ生のNPB選手の球も見られるし、フォームも勉強になるし。ウインウインの関係でいいね。すごいラインを作ったね。

五十嵐 あと、BCリーグと一緒に立ち上げた『BCリーグキャリアサポートセンター』も、ウチが運営しているんです。全選手に将来どうしたいか、来年も現役続行するか引退するか、一般企業への就職を希望するか、NPBに興味があるか、等のアンケートを取って、引退後のセカンドキャリアに役立つよう、いろいろ策を練っています。

パンチ さて50歳を超えて、残りの人生の第3コーナー、どういうイメージでいるの?

五十嵐 僕、あまり計画を立てないタイプなんですよ。言葉は悪いですけど、行き当たりばったりのタイプ(笑)。

パンチ (笑)。じゃあ、今は何を頑張ろうと思っている?

五十嵐 やはり対NPBの仕事を増やすところですね。今、巨人やソフトバンクは育成選手もたくさん取って、三軍を持っているじゃないですか。そことはすでに交流もあるんですが、もっともっと球団同士、選手の交流が広がっていって、その相乗効果で野球界全体が盛り上がればいいなと思います。とにかく例のないところを作っていきたいですね。新しく何々ができた、何かが始まった、というところに関わっていられたら一番です。

パンチ やっぱり管理部長だよ(笑)。

パンチの取材後記


 これまで52年間の人生で引っ越し14回、11カ所に住んだという五十嵐君。「ポジションだけじゃなく、そういう運命なんでしょうね」と笑っていました。そんな人生ではあるけれども、ウソをつかず裏切らず、インチキせずに真っすぐ進んでいれば、必ず人と人とのつながりで、新しい何かが拓けてくる。五十嵐君はまさにそうですね。

 彼は本当に頭のいいヤツ。武蔵GM時代も、みんなが知らないルールを使ったウルトラCで選手を獲るとか、まさに根本管理部長のようでした。だからNPBとBCリーグのライン、まだまだいろんなことを仕掛けられるヤツだと思うので、頑張ってほしいです。

 あと、そんな五十嵐君のお尻を叩く奥さんに一度、会ってみたいですね。ちなみにわが家は尻を叩かれるどころか、象のお尻(うちの奥さん)の周りを飛んでいるハエが僕。奥さんには感謝しないとダメですね。

●五十嵐章人(いがらし・あきひと)
◎1968年4月12日生まれ、群馬県出身。前橋商高ではエースとして3年夏に甲子園出場。社会人・日本石油で野手転向し、ドラフト3位で91年ロッテに入団、98年オリックスに移籍。プロ野球史上2人目の「全ポジション出場」、02年に移籍した近鉄では史上6人目の「全打順本塁打」を達成し、03年限りで引退。通算成績は870試合出場、打率.234、26本塁打、171打点。引退後はソフトバンクコーチ、BCリーグ群馬監督、同武蔵GMなどを経て、現在は(株)エイジェックスポーツマネジメント事業連携統括本部スポーツ文化PJチーム部長。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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