3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 右翼じゃない左翼だ?
今回は『1973年5月7日号』。定価は100円。
今回は落語のような小噺。他愛もない話なので興味のない方は読み流してください。
1973年は4月14日から開幕も翌日は雨にたたられ、雨天中止。翌16日、巨人は17日からの
広島戦のため、広島へ移動した。
当初は主力が飛行機、あとは汽車の移動となっていたが、国鉄の順法闘争が組まれており、2つの便に分かれ、全員が飛行機移動となった。
ただ、雨のあととあって広島空港は深い霧で覆われ、欠航が続出。それでも第一便は無事、羽田を出発し、到着した。
めでたし組が旅館でくつろいでいると第2班の消息。
「大阪までしか飛行機が飛んでないそうで、大阪から新幹線で来られるそうです」
これで選手が大歓声。
「(
川上哲治)監督に福田さん(
福田昌久コーチ)、チョーさんと飛行機嫌いがそろっていたが、逆に飛行機に嫌われたな」
黒江透修は2班予定が早く羽田に着いていたこともあって、1班に同行。
「こいつは、春から縁起がいいぜ」
と大喜びだった。
黒江が1班に合流できたのは、小守トレーナーが遅れたからだ。実は、たまたまこの日、
中日友好協会の訪日代表団が来日するということで、羽田につながる道はすべて検問。それに引っかかった。
「僕はどうもないけど、弟が髪を長くしているもんで、過激派の学生に見られたんですね」
と小守トレーナー。
もう一人、この検問に引っ掛かったのが、
柳田俊郎。まだまだ選手としては無名だったこともあるが、体も顔もごつく、警察関係者は右翼の一員と思ったらしい。
「君は右翼ではないか、としつこく言うんですよ。違うというのにあれこれ調べられてね」
と柳田。
ここで福田コーチがすかさず、
「お前、右翼でいいじゃないか。右翼しか守ったことないだろ。そういうときは、はい、右翼手ですと答えればいいんだよ」
と冷やかした。
17日、広島での第1戦、試合途中、
高田繁に代わり、柳田がレフトに入ると、ベンチが一斉に大笑い。
「そうか、柳田は右翼じゃなくて、本当は左翼だったのか」
おあとがよろしいようで。
では、また火曜日に。
<次回に続く>
写真=BBM