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プロ野球回顧録

バースが「どうしてあんな選手を獲ってきたんだ」日本球界を襲った黒船、“赤鬼”ホーナー旋風【プロ野球回顧録】

 

4試合で7安打中5本塁打


ヤクルト・ホーナー


 1987年4月15日、ボブ・ホーナーがヤクルトと正式契約した。78年のドラフトで、ブレーブスがイの一番で指名し、契約。同年、89試合の出場ながら23本塁打で新人王に輝いた。その後、メジャー9年間で215本塁打、来日前の86年も27本塁打を放っており、はっきり言えば、日本に来るはずもない選手だった。しかし、選手の年俸高騰に苦しんでいたMLB各球団のオーナーが、FA選手とのマネーゲームをしないよう、ひそかに示し合わせ、ホーナーに対しても100万ドル以下の条件しか出ず、200万ドルというヤクルトの提示に「イエス」と答えるしかなかった。このタイミングでなければ来日は実現しなかっただろう。

 5月5日、子どもの日の神宮での阪神戦でデビュー。5万2000人の大観衆が詰めかけた3連戦の初戦が3打数2安打、うち左腕の仲田幸司から右翼に第1号。それでも試合後、「パワー全開まで、あと1カ月待ってほしい」と語ったが、翌6日がすごかった。阪神先発の池田親興から1回二死でスライダーを左翼席に110メートル弾、5回には内角高めの速球を今度は左中間に110メートル弾、最後はフルカウントから真ん中高めの速球をバックスクリーン上部を直撃する125メートル弾。池田は「もう投げる球がない」と青ざめ、一塁を守っていた85、86年三冠王のバースが「どうしてあんな選手を獲ってきたんだ」と吐き捨てるように言ったという。

 当時、巨人クロマティや近鉄のオグリビーなどメジャーで実績を積んだ選手もいたが、ピークは過ぎていた。それでも何となく「日本球界とメジャーの差が縮まってきた」という雰囲気もあったのだが、ホーナーはその漠然とした“自信”をわずか2試合で根底からぶち壊した。まさに“黒船”である。

 2試合が終わった翌日、スポーツ新聞各紙の一面はほぼホーナーで埋め尽くされ、テレビのスポーツニュースもたっぷり時間を割いた。広告関係者は「この2日でCM値段に換算すれば軽く3億円を超えている」と驚き、ヤクルト本社の株も上昇。「ホーナー効果」「ホーナー現象」「ホーナー旋風」といくつもの表現が生まれた。

 3試合目は3四球と阪神投手陣が逃げ回ったが、9日、佐世保に移っての広島戦では再び2本塁打。狭い球場ながら2本目は場外弾だった。4試合で11打数7安打、うちホームラン5本で、打率は.636だ。

すさまじいスイングスピード


 のちにチームメートだった広澤克実はホーナーのバッティングについて次のように証言している。

「構えからインパクトまでが実にコンパクトなんです。スイングスピードは、捕手側にテークバックを取れば、その分速くなる。反動を利用できるからです。それが野球界の常識だったのですが、ホーナーは違いました。テークバックを取らず、コンパクトなスイングなんですけど、そのスピードはすさまじいものがありました。巨人の松井秀喜、阪神のマートンもテークバックはコンパクトでしたが、それよりも小さい。本来の理論ではヘッドスピードは生まないはずなんですけど、ホーナーのそれは生むんです。私の打撃フォームの理想は、今でもホーナーです。マネしようと思っても、どうしたってできませんでしたけど(苦笑)」

 もう一つの驚きは全力プレー。内野ゴロでも一塁に全力疾走、併殺崩しのローリング・スライディングも見せた。さらにホームランを打ってもガッツポーズもせず淡々。外国人選手のオーバーアクションを見慣れた日本の野球ファンにとって、新鮮なシーンでもあった。

 途中からは故障もあってモチベーションが下がったのか、成績は少しずつ落ちたが、それでも最終的には93試合の出場で打率.327、31本塁打、73打点。130試合に出ていたら三冠王は無理でも、本塁打王、打点王は獲れていたかもしれない。同年限りでメジャー復帰。ただし、帰国後、「ベースボールと言えないスポーツをやるため地球の裏側まで行くつもりはない」と発言し、日本の野球ファンを失望させた。

写真=BBM
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