球界再編の激動を挟んで
2017年から
西野真弘の背にあるオリックスの「5」。身長167センチとプロ野球選手としては小柄な西野は、2年目の16年に正二塁手として143試合に出場したことで「39」から変更した。オリックスは近鉄を吸収する形で合併、05年にニックネームもブルーウェーブからバファローズへと改めて再出発したが、この時期の印象が強いファンは、オリックスの「5」には大柄な長距離砲が着けているイメージが残っているかもしれない。
オリックス・バファローズ元年の05年こそ欠番だった「5」だが、翌06年にバファローズの初代となったのが
清原和博だ。
西武からFAで移籍した
巨人で着けた「5」をオリックスでも背負ったが、すでにプロ21年目の大ベテラン。08年オフに通算525本塁打を残して現役を引退している。一方、ブルーウェーブで最後の「5」となったのが
山崎武司だ。山崎も1996年に
中日で本塁打王となった長距離砲で、プロ17年目の2003年にオリックスへ。移籍1年目は22本塁打を放った山崎も、翌04年には引退を決意。だが、球界再編で誕生した
楽天へ分配ドラフトで移籍することとなり、ここで再起して、09年に2度目の本塁打王となった。

ブルーウェーブで最後の「5」は山崎だった
時代の分岐点で山崎と清原がリレーしたインパクトは強烈だったが、大きな背中で「5」を着けたのも彼らだけではない。清原の引退から欠番の1年間を挟んで助っ人のバイナム、ヘスマンが1年ずつ着けているが、山崎の前、20世紀から21世紀にかけてもプリアム、
アリアスら助っ人が2年ずつでリレー。オリックスの助っ人で「5」を最初に着けたのは1992年から2年間のトーベで、プリアム、アリアスは同じ身長180センチと助っ人としては小柄の部類だが、トーベは188センチ、ヘスマンにいたって196センチと、かなりの長身だった。
ちなみに、トーベとプリアムの間で
熊野輝光が1年、
勝呂壽統が2年でリレーしているが、阪急で「6」を着けて85年に新人王となった熊野は巨人を経て復帰、勝呂は巨人からの移籍。チームがオリックスとなってから、「5」は復帰を含めて移籍してきた選手や助っ人の系譜となっていった。ただ、オリックス初代の「5」は前身の阪急からブレーブスひと筋、背番号も「5」ひと筋を貫いた名バイプレーヤーだった。
阪急の集大成は最長11年間の名遊撃手

阪急、オリックスの名バイプレーヤーだった弓岡
ドラフト3位で1981年に阪急へ入団、1年目から「5」を与えられたのが
弓岡敬二郎だ。1年目から正遊撃手として全試合に出場した弓岡は身長172センチとプロ野球選手としては小柄ながら、主に二番打者として83年から3年連続リーグ最多犠打、84年にはリーグ優勝に貢献してベストナイン、ゴールデン・グラブをダブル受賞。88年を最後にチームはオリックスとなり、世代交代に自身の腰痛などもあって91年オフに33歳の若さで現役を引退したが、弓岡の11年間は「5」の歴代で最長。弓岡は阪急の「5」における集大成といえる存在でもあった。
阪急がプロ野球に参加して2年目となる37年から戦局の悪化で背番号が廃止されるまで「5」を背負い続けた
上田藤夫はハワイ出身の日系2世で、40年のベストナインに選ばれた遊撃手。戦後、50年に2リーグ制となり、“灰色の時代”と揶揄された時期、55年から63年に阪急ひと筋で「5」を背負った
岡本健一郎は外野手としてデビューしたが、57年に一塁でベストナインに選ばれている。64年には中日から復帰した遊撃手の
河野旭輝が後継者となるも短期間に終わり、そこからは
ウォールス、
石川進、カストロ、
三宅昇と短期間リレー。73年から80年までの
井上修は
広島からの移籍で、黄金時代を支えた内野の名バイプレーヤーだった。
時は流れ、2013年に「5」を継承した
平野恵一も、身長169センチと、やはりプロ野球選手としては小柄な名バイプレーヤー。02年にオリックスでプロ入りした平野は、08年に移籍した
阪神で「5」を着けて、オリックス復帰でも「5」のまま。この平野によって、阪急とオリックス、それぞれの「5」の傾向が収斂されたのかもしれない。平野が15年オフに現役を引退すると、1年の欠番を挟んで後継者となったのが現役の西野だ。
【オリックス】主な背番号5の選手
岡本健一郎(1955〜63)
井上修(1973〜80)
弓岡敬二郎(1981〜91)
清原和博(2006〜08)
西野真弘(2017〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM