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編集部員コラム「Every Day BASEBALL」

5試合中、4試合に登板でソウル五輪銀。石井丈裕が心掛けていたのは「球審のクセをつかむこと」

 

西武時代の石井


 1988年、野球日本代表が銀メダルに輝いたソウル五輪でエース格として投げたのが当時プリンスホテルに所属していた石井丈裕(のち西武ほか)だ。直前の世界選手権で渡辺智男(当時NTT四国、のち西武ほか)が故障した影響もあり、予選リーグから決勝までの5試合中、4試合に登板、そのうち3試合が先発とまさにフル回転だった。しかし、石井には「疲れはまったくなかった」という。

「とにかく自分の役割を果たそうと。やはり、日本代表に選ばれたくても選ばれなかった選手たちもいたわけです。その悔しさも背負っている。だから、出番があったら、一色懸命に投げようという思いだけでしたね」

 予選リーグ初戦のプエルトリコ戦で4安打1失点の完投勝利をマーク。連投となった台湾戦は9回から登板し、13回まで力投してチームのサヨナラ勝利に貢献。地元・韓国との準決勝でも先発し、潮崎哲也(当時松下電器、のち西武)、野茂英雄(当時新日鐵堺、のち近鉄ほか)のリレーで相手打線を1点に抑え勝利をもぎ取った。

 実は石井が五輪のマウンドに上がる際、心掛けていたことがあるという。

「今でいうゾーンに入っていた状態でしたが、球審のクセをつかむことだけはしっかりやっていました。国際試合はさまざまな国の審判が球審を務めますが、人によってストライクゾーンがまったく違う。だから、その傾向を投げながらつかんで、打者がボールだと思うところに投げてストライクを奪うことを考えていました。それが、うまくハマった感じでもありました。もちろん、キャッチャーは古田(敦也、当時トヨタ自動車、のちヤクルト)君でキャッチングが巧みでリードも抜群。本当に投げやすかったことも好投の要因でした」

 決勝のアメリカ戦にも石井は先発。日本は2回裏に1点を先制するも、石井は4回表に四番のティノ・マルチネス(当時タンパ大、のちマリナーズほか)に逆転2ランを浴び、さらに連打を許したところで降板してしまう。

「本塁打は左中間席へたたき込まれたんですけど(マルチネスは左打者)、そのパワーに驚きました。それと投げ合ったジム・アボット(当時ミシガン大、のちエンゼルスほか)もすごくいい投手でした」

92年のソウル五輪で銀メダルに輝いた日本代表


 日本は3対5で敗れ、金メダル獲得はならなかったが、五輪のマウンドは自身にとって大きなプラスになったようだ。

「五輪を経験して、プロに入って日本シリーズなど大舞台でも体が思うように動かないことはなかったです。マウンド上で邪心なく投げることができたのは、五輪以外では1992年、ヤクルトとの日本シリーズ第7戦くらいでしたかね」

文=小林光男 写真=BBM
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