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編集部員コラム「Every Day BASEBALL」

ダルビッシュにハマった若生正廣氏の指導。「フィジカルと柔軟性がつけば技術は上がる」

 

2003年夏には甲子園準優勝


東北高、九州国際大付高、埼玉栄高を率いた若生正廣氏は7月27日に死去。指導モットーは基礎体力向上に加え、野球にはおいては「バント、走塁、カバーリング」を重要視した


 MLBで活躍するパドレス・ダルビッシュ有の原点は東北高にある。中学生時代、50校近くから勧誘があった超逸材は大阪を離れ、宮城で3年間、白球を追いかけることを決めた。

 この選択は、大正解だった。ダルビッシュは多くの大型選手が悩むと言われる成長痛により、満足に動くことができなかった。痛みを押して動けば、致命傷になりかねない。そこで、若生正廣監督の指導が見事にハマった。

 体に負担がかかるメニューは回避。チーム本隊から離れて、水泳トレーニングに励む時期もあった。こうした「特別扱い」も、すべては若生氏が「将来性」を見越していたからである。ダルビッシュに限らず、若生氏の指導方針は、一にも二にもトレーニング。練習開始のウオーミングアップは、たっぷり1時間以上を割く。ここは、体をならす場でなく、強化メニューの一環。仮にセンバツを控えた冬場であっても、3月まではボールを握らせなかった。最後はスタミナ勝負。猛暑の夏を乗り切るための体力アップも目的であった。そして顔がつくまで、股割を徹底。フィジカルと柔軟性がつけば、比例するように技術は上がる、というのが指揮官の描く理論だった。

 ダルビッシュの恩師・若生氏が7月27日、仙台市内で死去した。70歳だった。

 若生氏は1950年生まれ。東北高、法大、社会人野球・チャイルドで投手としてプレー。1987年から約3年率いた埼玉栄高が、指導者としての出発点だった。故・佐藤栄太郎理事長(佐藤栄学園創設者)から「甲子園出場」を託されたが、実現できなかった。当時、成績が低迷していた東北高からオファーが舞い込み、母校再建のため「志半ば」と、苦渋の決断の末に、埼玉栄高を離れた背景がある。

 1993年秋から率いた東北高では嶋重宣(元広島ほか)、高井雄平(現ヤクルト)、加藤政義(元日本ハムほか)らを育成。2003年夏には2年生エース・ダルビッシュを擁して甲子園で準優勝。05年8月から率いた九州国際大付高(福岡)でも11年春、三好匠(現広島)、高城俊人(現DeNA)のバッテリーで準優勝を遂げた。

 14年夏の甲子園を最後に勇退すると、指導者としての引退も考えた。福岡は単身赴任。07年に発症した国指定の難病・黄色じん帯骨化症の影響で、足が不自由で杖が手放せなかった。しかし、このタイミングで埼玉栄高から監督就任要請があった。当時の教え子からの「もう一度、ユニフォームを着てほしい」との声に加え、学校側もラブコール。「何とか甲子園に行って、栄太郎先生の墓前に良い報告をし、それで野球人生を終えたい」。15年4月1日、約25年ぶりに埼玉栄高へ戻った。

九州で実績を残したことに誇り


 指導者人生の集大成。翌16年には福岡県出身の本格派右腕・米倉貫太(現Honda)が入学するなど、全国から若生監督を慕って有力選手が集まってきた。若生野球のモットーである「バント、走塁、カバーリング」を徹底してきたが、激戦区・埼玉の頂点には届かなった。埼玉栄高で「恩返し」できなかったことは、何よりも、心残りだったという。19年4月に勇退後も、総監督として山田孝次監督を支え、現場にも立ち続けた。20年3月末限りで退任し、故郷・宮城へ戻っている。

 その年の1月。法大野球部のOB会(新年会)で若生氏に会った。足が不自由になって以降、公の場に出歩くことは少なかっただけに、驚いた。3学年上の山中正竹氏(全日本野球協会会長)のほか先輩からの信頼が厚く、後輩からも慕われていた。車イスで出席した若生氏の周りには、自然と人が集まっていた。

 そこで、こう言った。「皆に、お別れに来たんよ」。その目は、やや寂しそうだった。「そんな冗談、やめてくださいよ!」と会話を交わしたが、この日の新年会が、最後の対面になった。一度、夏場に電話すると「コロナが落ち着いたら、仙台に来いよ!」と元気に話していただけに、実現できず、無念である。

 照れ屋で、決して口にはしなかったが、若生氏には密かな自慢があった。東北出身者が、縁もゆかりもない九州の地で確固たる実績を残したことである。就任当初は「外様」に対して、風当りも強かったというが、親しみやすい性格で、すっかり「九州人」になった。

 東北高で7回、九州国際大付高で4回の甲子園へ導き、通算16勝11敗。指導者としての目標だった日本一は果たせなかったが、約1300人の教え子を財産として残した。一見、ぶっきらぼうな言い方も、そこには、深い愛情があった。少し声がかすれ、仙台弁と北九州弁が混ざった口調が忘れられない。合掌。

文=岡本朋祐 写真=BBM
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