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プロ野球回顧録

わずか7勝で新人王に――伊藤智仁の伝説となった高速スライダー【プロ野球回顧録】

 

開幕は二軍スタート



 もう30年近く前の、わずか「7勝」である。それが、いまだ色あせることのない伝説として語り継がれているのだ。ヤクルト・伊藤智仁の投じた高速スライダーは、プロ野球の変化球史においても、その“衝撃度”において、特異な地位を占めている。

 京都・花園高から社会人・三菱自動車京都へ。2年目に習得した“魔球”が、伊藤の野球人生を変えた。それが、スライダーである。体が出来上がるにつれてストレートの球速も150キロ超とアップし、スライダーのキレも増した。92年には日本代表としてバルセロナ五輪に出場。そして、同年のドラフトで、3球団競合の末にヤクルトに入団する。

 翌93年春のユマキャンプで、その高速スライダーは早くも注目を浴びる。当時同僚だった広沢克己は、「背中のほうからきて、外角いっぱいに収まる。相当な曲がりで、しかも高速。まるで野球ゲームに出てきそうな球だった」と振り返り、笘篠賢治もまた、「何が来るのか分かっているのに打てなくて衝撃的だった。(左打席から見て)ストレートの軌道でボール気味かと思ったら、インコースをグッと突いてきた。曲がり幅がすごかった」と証言している。もっとも、スライダーばかりが特別視されていただけではなく、野村克也監督は「目をつぶってでもミットに収まる。稲尾二世や」と伊藤のカーブに注目したし、捕手・古田敦也は「落ちるボールを習得しろ」と盛んにアドバイスを送っている。

「2ケタ勝利間違いなし」と評論家からの評判は高かったが、オープン戦でカゼを引いて体調を崩してメッタ打ちに遭い、「所詮、アマチュアのピッチャーや」と指揮官に酷評されて開幕は二軍スタート。イースタンで2試合を投げて、4月20日の阪神戦(神宮)で10三振を奪って初勝利を飾るも、まだまだ手探りの状態だった。

 それが、キャンプ中にワインドアップに変えていたのを、もとのノーワインドアップに戻したことでフォームが安定。三振は多いが四球も多いという制球難の課題が克服され、6月3日の阪神戦(甲子園)で、ついにプロ初完封を遂げる。伊藤は「これが自分の野球人生の中で最高の日。狙ったところに投げられたし、バッターを打ち取るイメージもどんどんわいてきた。二度とないピッチングでした」と振り返る。

「ここぞのときには、ムキになって」


腕を柔らかく使ってキレ味鋭いスライダーを投げ込んだ


 そこからはまさに快刀乱麻。9日の巨人戦(金沢)は最後、篠塚和典にサヨナラ本塁打を浴びたが、セ・リーグ最多タイの16奪三振。そこからの4試合は41イニングを投げて、奪三振は実に45、失点はわずかに1、3完封。延長戦も2試合続けて投げるなど、右腕の実力は冴え渡った。

「ここぞのときには、ムキになって全部、勝負球をほうっていました」(伊藤)。人さし指と中指でかけた強烈な横回転。柔らかいヒジを生かした、打者に近いリリースポイント。あまりの大きな変化に、右打者は腰を砕き、左打者はヒザ元へ消えるボールにのけぞる。しかも、狙ったコースにズバズバと決まっているのだから、どうしようもない。高速で横滑りする、まさに“本物のスライダー”。7月4日、神宮での巨人戦での完封で7勝目。奪三振はリーグ最多126に積み上がり、防御率は驚異の0.91をたたき出した。

 だが快進撃は突然、終わりを告げる。ヒジに違和感を訴え、登録抹消。前半戦のわずか7勝で新人王に選出されたのが、彼の魔球が与えたインパクトの大きさの証明だが、その後はヒジや肩の故障に悩み続け、97年、抑えとして19セーブを挙げたのが唯一の活躍。あの、高速スライダーの輝きはついに戻らなかったが、一瞬の閃光だったからこそ、強烈な変化の残像は、人々の中に染み込まれ続けるのかもしれない。

写真=BBM
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