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昭和助っ人賛歌

乱闘騒ぎ、まさかの逮捕劇……三冠王・落合も恐れた“通算打率.331の強打者”デービスとは?/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

仲間思いのナイスガイ


近鉄・デービス


「ここは爆撃でもされたのか?」

 メジャー通算1623安打の大物ドン・マネーは、目の前に広がる光景に思わずそう漏らしたという。1984(昭和59)年、近鉄バファローズに入団した大リーガーは、ホームグラウンドの藤井寺球場や日生球場の老朽化した設備に加え、色褪せた客席が並ぶガラガラのスタンドを見て絶望する。まだセ・パ格差問題が深刻だった時代の悲しいリアル。アメリカのテレビ番組で紹介されていた、カクテル光線に照らされる超満員の後楽園球場とは別世界じゃないかと。さらに球団が用意した豪邸……のはずが来日してみると不衛生な中古マンションで、冷暖房は効かず、ゴキブリが這いずり回り、英語も通じない異国の地でシャロン夫人はホームシックにかかってしまう。しかも、神戸の住まいから藤井寺球場への通勤は電車を3回乗り換え、立ちっぱなしで1時間半という厳しいものだった。本職の野球では開幕から約1か月で8本塁打を放ち、四番打者として結果を残していたが、あまりの環境の悪さにマネーは「金は返してもいいから帰らせてくれ」とわずか29試合の出場で帰国してしまう。

 それでも『週刊ベースボール』84年5月28日号のインタビューでは、「近鉄のフロント、監督、コーチ、誰かひとりの責任ではないということです。その責任を強いて挙げれば、私自身にあることですから」と環境に適応できなかった自分が悪いと潔く認める人格者マネー。そして、序盤に打線の核を失った近鉄が緊急補強した助っ人のひとりが、30歳のリチャード・デービスだった。

 ブリュワーズ時代の79年に12本塁打を放つも、レギュラー定着はならず80年代はメジャー複数球団を渡り歩くヒゲ面のジャーニーマン。日本からのあまりに急なオファーに応じたので、当時のチームメート金村義明は「今度来る外国人はトラックの運転手だったらしいで」なんてロッカールームで噂になったと自著『80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話』(東京ニュース通信社)で回想している。だが、いざ来日すると打率3割をキープする技術と78試合で18本塁打のパワーですぐ日本野球に適応。四番を任せられながら一塁と外野を守り、若手の打撃練習に志願して参加するハングリーさも忘れない仲間思いのナイスガイは、新幹線の移動中にチーム全員にウイスキーを配るなど気前も良かった。

「野球は楽しんでやるものさ。日本にやってきたのは、野球が好きでたまらなかったからさ」

 そんな自由に生きる背番号15は、2年目の85年に猛牛打線を引っ張る活躍を見せる。パ・リーグ記録に並ぶ6試合連続アーチを記録。三冠王を狙う落合博満ロッテ)が「怖いのはあの外人さ」とその実力を認め、それを聞いたデービスも「そうかい。オチアイがそんなことを言ってくれたのかい。日本でもナンバーワンの打者にそう言ってもらえるなんて光栄だぜ」と負けじと打ちまくる。最多勝利打点のタイトルを獲得し、一塁手ベストナインにも選出。打率.343、40本塁打、109打点、OPS1.058と落合がいなければ三冠王も狙えた好成績を残す。なお翌年発売されたファミコンソフト『ファミリースタジアム』第1作目で、阪急・近鉄・南海の連合チーム「レイルウェイズ」の“三番でひす、四番ぶうま”は、ゲーム屈指の破壊力を誇った。

マウンドに怒りの猛ダッシュ


86年には死球をめぐって東尾と乱闘騒ぎを起こす


 しかし、だ。普段は気さくな性格もグラウンドに立つと感情の起伏が激しく、球団が準備していた10個のヘルメットの内、9つを叩きつけて破壊したり、ベンチのアイスボックスをぶん殴り、腕を12針も縫うケガを負ったこともある。86年6月13日の西武戦では、6回表に東尾修が投じたシュートが右ヒジに当たり、マウンドに怒りの猛ダッシュ。パンチ5発に前田日明ばりのローキックを浴びせ、退場処分を受けてしまう。与死球王・東尾からは前年にも日本新記録の145個目のデッドボールを食らい、この試合も同僚の鈴木貴久が頭近くにビーンボールを投げられていた。

「俺には養わなきゃいけない妻と子がいるんだ。当然の自己防衛だ。おかしいだろ。東尾みたいにコントロールのいい投手がこれだけ当ててくるのは。故意としか思えない」

 だが、理由はどうあれ、デービスはもちろん退場処分。後日、連盟から10万円の罰金と出場停止10日間、球団からは自宅謹慎4日間という重い処分が下される。しかし、背番号21のケンカ投法に対しては各チームが苦々しく思っていた。当然、暴力行為は許されることではないが、他球団の監督はその投球スタイルを批難。助っ人陣はデービスを擁護し、東尾にも問題ありという論調が広まっていく。だが、西武のエースもそれでビビるようなタマじゃなかった。身長190センチの巨体に殴られ、腫れ上がった顔のままその試合で完投勝利。5月後半の阪急戦では、あえて内角を突かずに意地の2失点完投勝利を挙げている。そんな野武士のような男たちがしのぎを削ったのが昭和のパ・リーグだった。

 86年の近鉄は前半戦を首位で折り返し、王者・西武をあと一歩まで追い詰めたが、129試合目に力尽きる。そのいてまえ打線の中心にいたのは、この年も打率.337、36本塁打、97打点という文句なしの好成績を残したデービスである。なお球界屈指の右打者とまで称された助っ人の年俸は6000万円でドル払い(推定30万ドル)だったが、当時の外国人選手は好景気ニッポンの急激な円高に悩まされていた。週べ86年9月22日号では背番号15のこんな愚痴が掲載されている。

「(米国への)送金だけを考えれば“円高”の影響はない。ドルを送るのだから……。でも日本での生活費は“円高”のあおりをモロに受けており、苦しいよ。外食代などは、昨年の3倍以上も必要だ。オフの契約更改では、この点を理解してもらいたいと考えている」

 だからこそ、タイトル獲得時の出来高契約分と優勝ボーナスが欲しい。87年にはメジャーで本塁打王経験のある大ベテラン、ベン・オグリビーもチームに加入した。しかし、最強・西武は黄金期真っ只中。デービスがNPB通算100号アーチを達成しても報道陣が取材に来ない現状に腹を立てる一方で、清原和博の加入によりライオンズのメディア露出や観客動員は急増していた。なぜこんなにも打っているオレに注目してくれないんだ……。そんな悲運の大黒柱が故障で、91試合の出場に終わった87年の近鉄は最下位に沈んでしまう(それでもデービスは規定不足ながら打率.337を記録)。

大麻取締法違反で現行犯逮捕


助っ人史に残る素晴らしい打撃を披露したが……


 そして、背番号15が来日5年目を迎えた88年シーズンにあの事件が起こる。ペナントでは2位近鉄が首位西武を追っていた6月7日朝8時半頃、捜査員10人が踏み込んだデービスの自宅から大麻樹脂14グラムが見つかり、大麻取締法違反で現行犯逮捕されてしまう。身柄を拘束された本人は所持こそ認めたが吸引は否定。「友人から傷に効く薬だともらった」と主張するも、球団はすぐさま出場停止処分を決め、27日に起訴猶予処分が出て釈放されると、直後に選手契約を解除。デービスは同日の午後5時10分、大阪国際空港発のユナイテッド810便に搭乗し帰国した。そして、その日、近鉄は喧噪の裏でひっそりと中日と一件の金銭トレードを成立させている。その移籍選手とは、ラルフ・ブライアントである。第三の外人で出場機会に恵まれずファームでくすぶっていた男は、新天地に来ると凄まじいペースでホームランを打ちまくり、チーム快進撃の立役者に。西武を猛追した近鉄はシーズン最後のダブルへッダーで伝説の“10.19”を戦うことになるが、それはまた別の話だ。

 さて、浪速の大麻騒動からさかのぼること3年前、85年のピッツバーグ・コカイン売買事件で大リーグの選手が過去の麻薬使用を証言したが、その際にデービスに売人を紹介されたと明かした選手がいたという。近鉄は独自調査して証拠不十分で問題なしと判断したが、その調査が甘かったのではないかと批難されてしまう。ただ、大阪での私生活は、表向きは自転車と電車を乗り継いで藤井寺球場へ通う普通の男だったようで、『週刊ポスト』88年6月24日号には、住吉区のデービス宅の近所に住む商店主の「道で会うと挨拶するし、感じのいい外人やったなァ。自宅のすぐそばの自動販売機でジュースを買ってね。顔をあわせると“オヤスミナサイ”と言うてました」という貴重な証言も掲載されている。

 それにしても、デービスとの別れは突然すぎた。この年も事件までは3割を超えるアベレージを残しており、NPB通算打率.331という超一流の助っ人選手のラストシーズンとしては、あまりに寂しい結末である。ちなみに父と妹はアメリカで弁護士として働く堅実な家柄だった。その反動で、彼は彼なりの自由を追い求め異国の地にやってきたのだろうか? 来日直後の週べでは、デービスのこんなコメントが確認できる。

「オレだけが、家族の中で異色だった。でも、まちがってはいないと思っている。野球をやっていたから、日本にも来ることができたんだからね。野球が面白くなくなったらアメリカへ帰るだけ。不動産のビジネスでもやるさ」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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