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パンチ佐藤の漢の背中!

鳴り物入りでロッテ入団も…第二の人生を懸命に過ごす丹波健二氏。常に心に「人として」/パンチ佐藤の漢の背中!

 

隣の中学校出身で年齢も1つ違い。昔からお互いに名前を知っていて共通の友人もいたのに、社会人でもプロでも、今まであまりじっくりと話す機会がなかったのが、パンチさんと元ロッテ丹波健二さん。今回、ようやくパンチさんが丹波さんの勤務先・東芝エレベータ株式会社を訪ねることができました。
※『ベースボールマガジン』2021年2月号より転載

26歳のシーズンが人生のピークだった


パンチ佐藤氏(左)、丹波健二氏


 日体荏原高時代は、甲子園には届かなかった。それでもその打棒に目を留めた広島が、「ドラフト下位か、ドラフト外になるかもしれないが、獲りたい」と名乗りを挙げた。

「あのときはまだ、何の成績も残していなかったので、大学か社会人に行ってから(プロに)行きます、と偉そうなことを言って、お断りしてしまったんです」と振り返る。

 東海大進学がほぼ決まったあと、監督に命じられ、社会人野球・東芝のキャンプに数日間参加した。それが、丹波さんの運命を変えた。

パンチ あの頃の東芝って強かったでしょう。

丹波 社会人といえば“オヤジの野球”というイメージだったんですが、みんな上手いんですよね。そうか、「ノンプロ」ってお金をもらいながら、野球ができるんだな、いいなと思って、合宿から帰って、父親に相談したんです。父親は後々のためにも大学を出たほうがいいんじゃないかと言ったんですが、僕はもう東芝に行くと決めました。

パンチ「いいな」と思ったということは、「やれるぞ」って手応えもあったわけ? あの強い東芝で、例えば1、2年やったらレギュラーになれるぞ、と。

丹波 勝負はできると思いました。

パンチ 当時のメンバーといえば、青島健太さん(のちヤクルト)、真喜志康永さん(のち近鉄)、武智勇治さん……すごかったじゃない。

丹波 とにかく体つきも違うし、すごい打球を飛ばすし。でもそんな中でやれたら面白いだろうなと思いました。

パンチ 東芝には何年いたの?

丹波 8年いました。

パンチ 8年からのプロ入りっていうのは遅いほうだよね。なぜ8年かかっちゃったの?

丹波 本当は3、4年で行きたかったんですよ。だけど東芝でレギュラーを取るのに3、4年かかってしまったので。レギュラーで主軸を打つようになってから、佐藤さんとも一緒に、インターコンチネンタル杯で地球の裏側(プエルトリコ=1989年)まで行ったじゃないですか。

社会人・東芝時代はアマチュア球界を代表するスラッガーだった丹波さん


パンチ あのときのメンバー20人のうち13、14人、プロに行ったんだよな。

丹波 僕は最初、プロに行かないほうのメンツに入って、アジア大会もそこから2年連続代表落ちして、自分でももうプロは年齢的に無理かなあ、まあ社会人でできるところまでやるか、と思っていたんです。

パンチ インターコンチに行って、自分には何が足りないと思った?

丹波 足りないというか、気持ちが弱かった。以前から薄々分かっていたけど、認めたくなかったというか……。要はどっしりしたところがなくて、悪い言い方をすればチキンとかビビりとか。いまだに人前で話すのも得意じゃないんです。

パンチ 打席では堂々として見えたけどねえ。

丹波 ユニフォームも何もかも引っ剥がしてみれば、震えてるんじゃないか、というぐらい。

パンチ それで帰国後、「これじゃいけない」と目が覚めたのかな?

丹波 帰ってきて、しばらく落ち込んでいましたね。全日本落ち=プロもないかな、ぐらいに思って。ところが26歳になる年の春先から、まあ打ちまくったんですよ。九州の大会で4試合連続、都市対抗予選で3試合連続、本戦で5試合連続9本……と、15、16試合連続でホームランを打ったんです。何か憑りつかれたように……(笑)。そんなことがあって、バルセロナ五輪のアジア予選メンバーにも入って、ロッテに指名されました。そのあたりが、人生のピークでしたね。

パンチ 一つ、肩の力が抜けたのかな。

丹波 それもあると思いますね。余計な緊張がなくなったというか。

「金属バットだったから」と言われるのは心外だった


パンチ ロッテの他も、どこか来たの?

丹波 ほとんどの球団に来てもらいましたよ。一応全日本の四番という肩書がありましたから。

パンチ 丹波君のあの独特のフォーム、今なら福岡ソフトバンク柳田悠岐君みたいなのもいるけど、当時はプロに入ってからあのフォームを直さないとか、条件はあったの?

丹波 何もないです。今とは違って、あまり変わったフォームは認めてもらえなかったですけどね。

パンチ そうだよね。というのは、俺なんか丹波君みたいなフォームではなかったけど、何かあるとすぐ「金属バットの影響だ」って言われたの。いや、ちょっと待ってくれ。俺は大学4年間、木のバットでやっているし……ってことがあったんだ。

丹波 僕はプロに入って、フォームを直されたことはなかったですよ。だから、自分の実力なんです。「金属バットだったから打った」とか「金属の申し子」とかよく言われたんですけど、実力がないからプロで活躍できなかっただけでね、逆にそうストレートに言ってもらったほうが、正直嬉しいんですよ。だって僕だけ金属を使っていたわけじゃない。石井浩郎(元近鉄ほか)も古田敦也(元ヤクルト)も、みんな社会人では金属を使っていて、プロで大活躍したのに。古田もプエルトリコでは全然出番がなくて、「体育の先生になろうかな」なんて言っていたんですからね。

パンチ メンタルのほうは、プロではどうだったの?

丹波 トータルで言うと、実力がなかった。だからメンタルの面でも弱いのは間違いなかったんです。やはり松岡修造さんが言うように、気持ちが脳で体を動かすんですよ。

パンチ プロは5年やったんだよな。俺と一緒だね。ホームランは何本打った?

丹波 1本です。

パンチ じゃあ俺、勝った(笑)。俺、3本だから。

丹波 佐藤さん、もっと打ったイメージがありましたけどね。

パンチ そう? 誰から打ったの?

丹波 3年目に、日本ハムの芝草(宇宙)から。厳密に言うと、真っすぐを狙っていたんです。でも打ったのはフォーク。フォークをうまく拾っちゃったんだけど、真っすぐだったら振り遅れていたんじゃないかなってぐらいのイメージですね。だから、大したホームランじゃなかったです。

92年にロッテに入団すると一塁手、もしくは三塁手の和製大砲候補として注目を浴びた


パンチ でもさ、1本も打てない人もいるんだから。今となってはプロに入って一軍に上がれた、ヒットも打った、ホームランも打った。いいじゃないか。プロはどういう5年間だった? いい思い出って何だろう。

丹波 トップクラスの人たちと一緒に野球をして、食事に行ったり、飲みに行ったりしたことですかねえ。

パンチ 華やかで厳しい世界を見たわけだ。

丹波 宇野(勝)さんと牛島(和彦)さんにすごく可愛がってもらったんですよ。2人とも中日から来た人だったから、もともとロッテにいる人たちとあまり一緒に行動していなくて。お2人にいろいろ教えてもらったのが、いい思い出です。

パンチ 丹波君の人生の中で、野球が教えてくれたことって何?

丹波 教えてくれたことかどうかは分からないけど、僕ら、物ごころがついたときからずっとプロ野球選手を目標に野球をしてきましたよね。それを31歳まで現役で続けられた。そのあとちょっと休んで、またシニアリーグの指導という形で、いまだにユニフォームを着ています。はっきり言って、僕から野球を取ったら何が残るんだろうなというぐらい。その中でいろんな人との出会いやお付き合いがあり、縁も恩も感じて、長嶋監督じゃないけど、「野球は私の人生」ですね。

パンチ 夢を追って、夢をつかんで、まだその夢を持ちながら子どもたちに教えている。野球がなかったら、何もねえやっていう感じなんだ。

丹波 そうですね。野球人生の中で自分が選択してきたことについても、後悔はないです。

 1996年10月、ロッテから戦力外通告を受けた丹波さんは、他球団へのトレード話も、球団スカウト就任の話も丁重に断り、まっさらな状態で第二の人生のスタート地点に立った。

 そこで縁あって声を掛けてくれたのが、大手不動産会社・大京の子会社社長。大の野球好きで、「まだ仕事が決まっていないんだったら、ウチでやらないか」と、手を差し伸べてくれたのだ。

ホームラン級の契約を置き土産に、転職


パンチ 丹波君、本当にツイてるね。

丹波 子どもにも言われます(笑)。

パンチ そこはどういう会社だったの?

丹波 大京のマンションって、ありますよね。その中古マンション、中古住宅の売買をするんです。

パンチ そんな仕事、すぐできたの?

丹波 とにかく家族のためにも頑張ろう、と思いました。まず宅建を取って……と3、4カ月、一生懸命やっていたんです。でもそのときふと、気付いたんです。子どもたちがまだまだ小さいのに、不動産の仕事だと土日は休めない。水曜日が休みだけど、売り上げがイマイチだったから、水曜も休めない。朝遅くて夜遅いので、子どもと顔も合わせられないんです。これが野球なら仕方ないと思うんですが……。

パンチ 子どもたちが一番かわいい盛りに、一緒にいられないのはねえ。

丹波 それもストレスだなと思って。

パンチ 会社に相談したの?

丹波 いえ、東芝時代の知人に相談したんです。そうしたら、それを聞いたウチの元社長が――僕の仲人もしてくれた方なんですが、「なんで今ごろ言ってくるんだ。野球をクビになったら、真っ先に俺のところへ来ると思っていたぞ」と言ってくださって。

パンチ また、ツイてるねえ。

丹波 さんざん怒られ、「ふざけんな、この野郎」とか言われながら、「じゃあ4月16日に、五反田のどこそこに行け」と言われました。そこで不動産のほうの社長に話さなければいけないわけですが、入社4カ月って、まだ素人ですよね。不動産なんか売れるわけないじゃないですか。

パンチ それは辞めづらいよね。

丹波 僕、ラッキーだったんです。中野区担当になってから、自分で一生懸命チラシを作って、ポストに入れて回っていたんですよ。そうしたら、大地主さんから相続した不動産を売りたいというお客さんが連絡してきて。

パンチ ホームラン級の仕事を取ってきたんだ?

丹波 そうなんです。めったに取れないような大きな契約で、それが僕の辞めるにあたっての、お世話になった社長さんへの置き土産になりました。だって、社員を4カ月雇うのって、会社側も大変ですからね。新しいものをいろいろ準備して、給料も渡して。

パンチ 恩返しできたわけだね。引退後、そんなホームランを打てる人は少ないからね。それはいいホームランだ。ここはどういう仕事から始まったの?

丹波 ここは名前のとおり、東芝のエレベーター、エスカレーター、オートロード(動く歩道)を扱っている会社なんです。で、僕は最初、総務に3年半いました。

パンチ 総務って心臓部じゃない。そこで何をやったの?

丹波 総務厚生担当だったので、5000人近くの社員の給料と、社内用品や保養所の手配をしていました。ところが野球部の先輩が、営業部にたくさんいるんですよ。それで、「お前、営業に来い」と誘われましてね。イヤだな、暑い日も寒い日も事務所の中でラクだなと思っていたのにって(笑)。でも、営業に移ってよかったですよ。

パンチ 営業はどんなところへ行くの?

丹波 基本的には設計事務所、ゼネコン、施主などを回ります。

パンチ 「うちのエレベーターを使ってください」と言うわけだ。この仕事のやりがいというか、どういうときに「よっしゃーっ!!」ってなるの?

丹波 やはりビッグジョブを取ったときですよね。千葉駅が最近建て替えたばかりなんですけど、あそこに70台ほどエレベーター、エスカレーターが入っているんです。あれはウチが取ったんですよ。もちろん僕一人で取ったわけではないですけどね(笑)。あと、スカイツリーのメインの4台もウチの会社ですよ。

「こんな楽しそうにやるチーム、なかなかない」


パンチ すごいねえ。さて今、55歳でしょう。この会社はあと何年?

丹波 定年は60歳だけど、65歳まではいられるみたいですよ。今、そこらへんを考えています。

パンチ ちょうど第4コーナーだもんな。そして今、もう一つの生きがいがシニアリーグ(八千代中央リトルシニア)の指導といっていいのかな。もう何年やってるの?

丹波 15年になりますね。もともとOBクラブの野球教室で知り合った、ロッテの大先輩・寺沢(高栄)さんに「一緒にやろうよ」と誘われて、お手伝いのつもりが、最初から監督をやっています(笑)。

パンチ それが日本一にもなってさ。今年、慶大から東京ヤクルトに行った木澤(尚文)も、卒団生なんだってね。

丹波 今広島にいる坂倉将吾と、バッテリーを組んでいたんですよ。

パンチ 軽い気持ちで引き受けたところから、プロ野球選手まで出すとはなあ。どういう指導をしていたの?

丹波 そんなビックリするような指導も、スーパーな練習もしていないですよ。僕もちょこっとプロを経験しているし、千葉ロッテのOBなんかがちょこちょこ顔を見せてくれるけど、だからといって強くなるわけじゃない。ただ、ウチの練習を見に来てくださる高校野球の監督さんや関係者、何人かにポンっと言われるのは、「こんな楽しそうにやるチーム、なかなかないですよね」ってことぐらいですね。まあ、あと今教えている選手には、気持ちの面でも僕と同じようにはなってほしくないな、というところはあります。

パンチ それにしても、ここまでの運の良さは、何だと思う?

丹波“持っている”んだと思います(笑)。

パンチ 大したもんだね。

丹波 頭がいいわけでも顔がいいわけでもないのにね、僕は本当に大した人間ではないですが、少年野球からプロまで、また会社の上司も含め、出会った方々や、その方々から教わったことがよかったんでしょうね。

パンチ 好きな言葉とか、つらいときに思い出す言葉は何?

丹波 座右の銘とか、これというものはないんですが、「人として」という言葉が……。その後ろにつながる言葉はたくさんあるじゃないですか。「人として、これはしなければいけない」とか「人としておかしいだろう」とか。

パンチ どのへんから、そういう気持ちが芽生えたの?

丹波 プロが終わったあたりですかね。

パンチ きっかけはなんだったんだろう。ミスター社会人として入ったプロは5年で終わったけれども、だから何? 人として俺は何も恥ずかしくないぞ、人としてきちっと生きていくぞということだったのかな?

丹波 そこですべてが完成したわけではないと思うんですが、人のいい面も嫌な面も見てきたのはあったかもしれないですね。いいときはチヤホヤするけど、そうでなくなると声もかけず、気も使わないとか。そっちの側になりたくないとは思いましたね。

パンチ 分かるよ。俺はどんなときでも、一人の人として付き合っていくんだというのがあったのかもしれないね。俺の場合は「イチローはすごかったね、パンチはダメだったね」って言われないように、「イチローはすごかったね、パンチはテレビ向けだったね」と言われるように頑張ってきたよ。いや、丹波君の人生、最高の人生だよ。

丹波 佐藤さんには敵わないですよ(笑)。

パンチの取材後記


 本人は軽くしゃべっていたけれども、「ミスター社会人」として鳴り物入りで、プロに入った。そのときはチヤホヤされて華やかな世界に飛び込んだけれども、成績が出なければ手のひらを返したように叩かれる。やはり、相当悔しかったんだと思います。その経験から生まれた、「俺は上り調子の人にホイホイして下り坂の人にはソッポを向く、そういう人間にはならないぞ、人としてきちんと付き合っていきたいんだ」という気持ちが、今の仕事にも表れているのでしょう。

 引退して身の丈にあった生活をし、現実を受け入れて謙虚にコツコツ仕事をしていれば、いろんな人が助けてくれる。丹波君、体形も崩れていないし、皺はお互い増えたけど、顔は男の履歴書。西岡徳馬さん風のいい男になっていましたね。また、最後に僕と写真を撮りたいという女性社員に撮影役を買って出てね。その様子を見ていたら、先輩後輩、男女関係なく、「人間・丹波」が皆に好かれている、それがはっきり分かりました。

 野球人としてでなく、人として。この言葉は深いです。今年1年、僕も「人として」、自分に言い聞かせながら生活していきます。

●丹波健二(たんば・けんじ)
◎1965年5月20日生まれ、神奈川県出身。調布リトルシニアから日体荏原高を経て、84年に社会人・東芝に入社すると、91年の都市対抗では大会9本塁打、1試合3本塁打の大会記録に並び、チームを優勝に導き橋戸賞を獲得。バルセロナ五輪予選日本代表にも選出された。ドラフト3位で92年にロッテ入団し、96年限りで引退。NPB通算成績は37試合、9安打、1本塁打、4打点、打率.143。現在は東芝エレベータ株式会社に勤務しながら、八千代中央リトルシニアの監督を務める。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=椛本結城
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