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昭和助っ人賛歌

「大洋や阪神で投げてもいい」王巨人の救世主から問題児へ…“お騒がせ守護神”サンチェとは?/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

崖っぷちの王体制3年目に



 1986(昭和61)年、デーブ・スチュワートは巨人入団寸前だった。

 84年はレンジャーズで7勝14敗、シーズン途中にフィリーズへ移籍した85年は未勝利で防御率5点台だった28歳右腕に対し、なんと巨人は年俸100万ドルの2年契約にトレードマネー100万ドルも加えた、当時の日本円で総額6億円という破格の条件で契約……間際までいきながら、本国でのスキャンダル発覚で獲得を断念する。

 そして、アメリカに残ったスチュワートは才能が開花し、87年から4年連続20勝を挙げ、メジャー屈指の先発投手の地位を確立するわけだ。もしあの時点で来日していたら、江川卓やまだ十代の桑田真澄らとともにプロ野球史上屈指の三本柱を形成していたかもしれないが、そのプランは幻に終わった。そこで、急きょスチュワートの代役として獲得したのがルイス・メルセデス・サンチェス、あの「サンチェ」である。数年前から候補リストに入っていたが、所属していたエンゼルスが戦力と見なし譲渡を拒否。しかし、85年オフにエクスポズへトレードされ、クロマティの獲得がきっかけで友好関係にあった巨人が再度アタックして契約にこぎつける。

 当時の巨人フロントは焦っていた。84年に満を持して王貞治が監督就任するも、2年連続V逸。これ以上、世界の王に恥をかかすわけにはいかない。そんな崖っぷちの王体制3年目のカギを握るのが、日本球界ではまだ珍しかった外国人ストッパーだった。以前は先発完投が当たり前だった江川や西本聖が30代を迎え、試合終盤の投球に不安を抱えており、チームは信頼のできる抑えを欲していたのだ。メジャー通算194試合に投げ、28勝21敗27セーブ、防御率3.75という実績を誇る経験豊富な32歳右腕。もちろんまだアメリカで投げられたが、トーキョージャイアンツから大リーグ平均年俸約37万ドルを大きく上回る年俸60万ドルを提示され、サンチェは海を渡ることを決意する。

チーム合流早々起こした事件


『週刊宝石』86年4月4日号によると、3月3日に来日した際に首には5本の金のネックレス、右手に金のブレスレット、左手には金張りの腕時計、さらに両手の薬指にはダイヤを散りばめた金の指輪という、現金が詰まったアタッシュケースを持ち歩く宮路社長(懐かしい)も驚くド派手な出で立ちで空港に降り立つ。歴代外国人選手たちが戸惑った、球場の和式トイレにも全く動じない謎の強心臓ぶりを発揮する一方でチーム合流早々、サンチェは事件を起こす。3月14日、南海とのオープン戦が雨で中止となり、巨人ナインは西宮の阪急の室内練習場へ移動して練習する。背番号20は捕手の山倉和博相手に97球のピッチングを行ったが、コントロールや球の走りはいまいちで明らかにイラついた様子。投球練習を終えるなり、マウンド前方に転がっていたボールを拾い上げ、捕手の山倉目がけて力いっぱい投げつけた。驚いたのは、目ならしのため打席に入っていた中畑清だ。いきなり頭をかすめる予想外のビーンボールに「なにすんだよ!」と大声をあげてしまう。

 こうなると、試合中止でネタに困っていたマスコミは飛びつく。翌15日のスポーツ紙は一斉に新助っ人の暴挙と書き立てた。一方で、星野仙一は『週刊文春』の自身の連載で「ピッチャーにとって何がイヤかといえば、ブルペンで打席に立たれるくらいイヤなものはない。調子がよければまだしも、球がいかないときはなおさらである」とサンチェを擁護。巨人の注目度の高さと騒ぎの大きさに焦った本人も、バスで中畑の隣に座り「アミーゴ、アミーゴ」と身長187cm、87kgの巨体を折り曲げ必死に謝罪したという。なお、マウンド上では“カリブの怪人”と恐れられた男も、ベネズエラ出身でスペイン語が母国語のため英語は片言。当初は周囲との意思疎通に苦労した。

 オープン戦でリリースポイントが見えづらい投球フォームから、最速147キロの直球に多彩な変化球を披露し期待値は高まるも、3月26日にはランニング中に左大腿部二頭筋の肉離れ。開幕に間に合うか危ぶまれるが、86年シーズンが始まると、背番号20は投げれば負けない“サンチェ神話”と称される快進撃を見せる。『週刊ベースボール』86年5月5日号では、『サンチェが初めて王さい配を確立させた!“巨人中の巨人”L・サンチェがもたらした“大革命”とは?』という特集が組まれ、「4月21日現在、巨人は堂々の首位。その原動力の背番号20は5連続セーブ、一度の失敗もないパーフェクト・リリーフ。7回まで1点リードなら絶対勝てる、という必勝パターンが出来上がった」とまで絶賛されている。王監督も「7回までに1点リードしておくことが、試合の大目標だ。代打の繰り出し方も、継投も早め、早めに攻撃的にできる」とその存在の大きさを認め、“100球肩”のエース江川は「先発投手は行けるところまで行けば、後始末はサンチェがしてくれますからね。気分的に、ものすごく楽に投げられます」なんて笑った。

日本で見つけた居場所


1年目は王巨人のストッパーとして好スタートを切った


 ベネズエラの片田舎に生まれ、高校を出たが小学校を卒業したころには家のために働いていた苦労人。17歳でメジャースカウトに才能を見いだされるも、ビッグリーグのデビュー直前に右ヒジを故障し手術、投げ方もオーバースローからスリークォーターへと変わった。言葉の不自由さから差別意識にさいなまれる日常を送る中、投手作りの名人トム・モーガンコーチにスライダーを教わり、リリーバーへ転向。メジャー関係者から「驚くほど野球の才能に恵まれながら、持続力がない。またその才能が、磨かれていない。抑え投手としては、相手打者を絶対に抑え込もう、という“殺しの本能”に欠けているのだ」と評されていた男は、ついに日本で居場所を見つけた。

 春先に一度だけクロマティに誘われ六本木のディスコへ寄った以外は、基本的に広尾のマンションへ真っすぐ帰る毎日。趣味は音楽で、「どこかに、ラテンミュージックのレコードを売っているところはないか?」と田沼一郎通訳に頼み店に連れて行ってもらうと、LPを18枚も買い込んだ。お気に入りのキリンビール片手の音楽鑑賞が手軽なストレス解消法。テレサ夫人は一緒に来日したが、二人の子どもや両親は母国に住んでいる。手首に巻く自慢の金時計はベネズエラ時間に合わせたまま。家族へ国際電話する際に向こうの時間に合わせておいた方がかけやすいからだ。その注目度は日に日に高まり、『週刊現代』86年5月3日号では「野球はケンカだ、オレたちが日本中をエキサイトさせる」と題してサンチェと阪急のアニマルの助っ人抑え投手を特集。日本の銀行で口座を作っても、マシーンに自分のカネを扱われるのはイヤだとキャッシュカードではなく、窓口でやりとりする巨人新ストッパーの素顔を紹介している。

 4月23日ヤクルト戦のサヨナラ暴投で来日初黒星。25日の大洋戦でも代打・高木由一に三遊間を破られ連続リリーフ失敗。「日本野球はレベルが低い」という不用意な発言は相手打線に火をつけた。これには、週べの直撃インタビューでサンチェ本人が「とくに日本のレベルがアメリカに比べて低いということは、思ってもいません。ただ、あえていうなら、日本のチーム全体のレベルは3Aぐらいだと思っています。食事だとか待遇など、その他諸々の条件は大リーグと変わらないし、満足しています」なんて弁明。そして、自身が大リーグで通用しないから日本に来たんじゃないか、と記者から質問されることに怒りをにじませる。

「たとえばクロマティにしても、ランディ(バース)にしても、大リーグで立派に通用する選手だ。日本に来ている人でも、大リーグで通用するレベルの選手はたくさんいる。私もその一人、と考えてくれて間違いありません。あまりにも同じことを聞かれるので、こういう質問に関しては多少気分を害しています」

2年目は球団史上初のキャンプボイコット


 前半戦終了時で26試合に投げ、4勝1敗12セーブ、防御率2.13。王巨人の守護神として定着し、オールスターにも初選出。しかし、だ。後楽園球場での球宴第1戦でアクシデントが起こる。全セの5番手としてマウンドに上がった背番号20は、石嶺和彦に1球目を投げた直後に、右腕の痛みを訴え急きょ降板。診察の結果、右上腕二頭筋けん炎で「2週間の投球禁止」を言い渡されてしまう。この数日前、皆川睦雄投手コーチがフォーム矯正をしようと投げ込みを命じ、プライドを傷つけられたサンチェは忠告を無視して、不貞腐れながらなぜかアンダースローで100球近く投げ込み、右腕のハリを訴えていたという。

 実は5月下旬、球団はスペイン語専門の通訳兼世話係で阪急やヤクルトでプレーしたボビー・マルカーノを採用していた。当然、日本で11年間もプレーしたマルカーノは遊び場所も知り尽くしている。すぐさまベネズエラ出身のふたりは意気投合。深夜の六本木に繰り出し、ホロ酔いで踊っている姿が写真週刊誌に激写されてしまう。真っすぐ家に帰って音楽鑑賞を楽しんでいた男が、急に変わってしまったと関係者は嘆いた。しかも後半戦のチームはサンチェ不在の35日間を20勝7敗と大きく勝ち越し、広島から首位の座を奪還していた。8月23日の大洋戦で復帰登板を果たした背番号20だったが、タイミング悪くチームも徐々に失速。守護神を投入する展開にもなかなかならず、最終的に王巨人は広島との勝率わずか3厘差のデッドヒートに破れ、ゲーム差なしの2位に終わる。

 1年目は37試合4勝1敗19セーブ、防御率2.32の好成績。50.1回を投げ、被本塁打は5月に大洋のポンセから浴びた1本のみだった。年俸9200万円での残留を勝ち取り、サンチェはオフにニューヨークで派手に遊び、ベネズエラの自宅を新築した。よし2年目の87年もこの調子で頼んだぞ……という王監督の期待とは裏腹に気ままな右腕は春季キャンプになかなか姿を現さなかった。なんと予定より大幅に遅れ、3月7日にようやく来日。球団史上初のキャンプボイコットについては、「母親がアキレス腱を痛めた」というなんだかよく分からないエクスキューズをかます始末。例年参加していたウインターリーグにも参加せず、14キロものウェートオーバーのたるんだお腹で走り込みを命じられるも、4月18日には右肩痛を理由にダウン。ついでに持病の水虫も日本の湿気の多い気候で疼き出す。セーブポイント数に応じたインセンティブ契約を結んでいたが、一軍復帰後は中継ぎやセーブのつかない場面での起用に腹を立て、王監督とのゲームセット直後の握手を拒否する一幕もあった。

報道陣に向かって球団批判


わずか2年で球団を去ったサンチェだが、同僚の角はそのスライダーを絶賛している


 マウンドに上がると神経質で激情家。すでに「首を振ったらスライダー」というクセが他球団には研究され、本人も矯正しようと試みるが緊迫した場面ではつい忘れて出てしまう。さらに致命的だったのは、球宴前の7月20日に羽田空港のロビーで吠えた首脳陣批判だ。報道陣に向かって、「皆川コーチは下から投げていたんだろ。それがどうして、オレに上から投げろというんだ」と自身のアタマを指さし、ミナガワはちょっとおかしい? と言わんばかりのアピール。「大洋や阪神で投げてもいいんだ」と移籍志願ともとれる発言で、球団からは罰金30万円を科せられてしまう(内容をそのまま通訳したマルカーノも厳重処分)。

 9月1日には68日ぶりのセーブを挙げるも、4日の練習中に「クイックのスローなんてやれるか!」と理由なき反抗。悲願のV1に向けてひた走る王巨人のブルペンにおいて、背番号20の居場所はなくなりつつあった。今年、最初に家族を球場に呼ぶのは優勝が懸かったような大一番、「ビッグゲームでオレの最高の仕事を見せてやりたい」と意気込むも、西武との日本シリーズでは登板なし。国松彰ヘッドコーチは「サンチェさえちゃんとしてたら楽に勝てた試合がいくつあったかしれないよ」とチクリ。1年目の“救世主”から2年目は“問題児”へ――。

 結局、39試合で0勝3敗9セーブ、防御率2.82という成績に終わった87年限りで退団。2005年に脳血管疾患のため51歳の若さでこの世を去った。2014年発売の『ジャイアンツ80年史』(ベースボール・マガジン社)の中で、80年代の巨人ブルペンを支えた角盈男鹿取義隆のリリーバー対談が行われたが、鹿取は「86年にサンチェが入ったことで、流れが良くなったな」と振り返り、角も今は亡き盟友についてこう回想している。

「あそこから楽になった。サンチェのスライダーはこれぞスライダーというような、シャっと真横へ。曲がり方はすごかったね」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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