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プロ野球はみだし録

戦時中のプロ野球を覆った数々の悪夢。カタカナ追放、ユニフォームは軍服に【プロ野球はみだし録】

 

「皇国に挺身して戦う野球戦士」は「積極的に戦え」


沢村栄治(右)ら野球選手も戦地へ送られた


 1945年1月には甲子園、西宮と、関西の球場で開催されたとされる試合のポスターが残っているが、この4試合についての公式記録は残されていない。ほどなく、本土決戦に備えた「決戦非常措置要綱」が明らかにされる。41年12月に太平洋戦争の火蓋を切った日本が、さらなる地獄へと自ら突き進んでいった時期だ。

 プロ野球選手の応召が始まったのは開戦の後、翌42年からと思われがちだが、これは正しくない。たとえば、沢村賞に名を残す巨人の沢村栄治は38年に最初の応召、そこで負傷し、以降は伝説的な快速球を投げられなくなった。応召が相次ぐようになったのは40年。「敢闘精神にもとる。積極的に戦え」ということで引き分けは廃止され、球界からは敵性語としてカタカナの追放が始まった。最終的には戦後までプレーして通算303勝を残すことになるのだが、少年時代にロシアから亡命してきた巨人のスタルヒンは登録名を「須田博」に改めている。

 そして日米開戦。42年には延長28回を戦った試合があり、これは日没のため試合が続行できず引き分けとなったが、イニング数がメジャーを超えたことで「真摯敢闘の見本」と表彰され、翌43年には選手たちは「皇国に挺身して戦う野球戦士」としてユニフォームを軍服としてプレーするようになる。選手たちの入営も続いたことでチーム編成が難しくなる球団も出てくるようになり、そのオフには2球団が解散。背番号が廃止され、全6球団で戦うことになった44年には応召した選手たちの悲報も次々に届けられるようになる。

 そして11月、「参加球団の総力をあげて戦力増強に資するため、野球を一時停止することを決定」と正式に発表された。もちろん、ここでの「総力」「戦力」は野球の上での比喩ではなく、戦争に向けた文字どおりの“戦力”だ。45年3月には関西に残っている選手だけで“サヨナラ試合”を開催する計画もあったが、大阪大空襲のため頓挫している。

 そして8月15日、終戦。6日には広島に、9日には長崎に原爆が投下され、各地の大都市も空襲で焦土となっていた。それでもプロ野球は再開へと動き出す。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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