西宮球場で“保管”されていた野球用具
戦後、プロ野球復活時の阪神ナイン
1945年8月15日、終戦。前年のリーグ戦を最後に休止へと追い込まれたプロ野球だったが、これを発表した際には「参加球団の総力をあげて戦力増強に資するため、野球を一時停止することを決定」としていた。あくまでも、「一時」なのだ。もちろん偶然の言葉づかいだったのかもしれないが、そこに当時の関係者たちが抱いていた一縷の望みや、しぶとさのようなものを見ることもできよう。
戦争に向けてプロ野球は翻弄された。架空の世界であれば滑稽にも見えてしまうかもしれない。カタカナが追放されたことで、審判の判定もストライクは「よし」、アウトは「だめ」。塁上のクロスプレーがあったとして、「だめ!」と叫ぶ審判の姿を想像してみてほしい。選手はグラウンドで軍服に身を包み、試合の前には万歳三唱、木綿の不足により芯がスフとなったことで飛ばなくなったボールではなく、時には手榴弾を投げて観客を沸かせた。現在は球宴で行われているホームラン競争に近いかもしれない。マウンド付近に「米英撃滅」と書かれた標的を置いて、それに向かって手榴弾を投げて優劣を競うものだったという。すべての関係者が忸怩たる思いを抱えながらも野球を続けていたことは想像に難くない。そんなプロ野球は終戦とともに、いち早く再開へと動き出した。
10月23日、阪神、阪急(現在の
オリックス)、近畿日本(のち南海。現在の
ソフトバンク)、朝日(のち松竹。大洋、現在の
DeNAと合併)の関西4球団が大阪は梅田の阪急ビルで初めて会合を持ち、再開について議論を交わすと、11月6日と7日に東京で関西4球団に
巨人、名古屋(現在の
中日)も加わって、日本野球連盟の復活と、東西対抗戦を開催して世間に再開をアピールすることなどが話し合われる。そこで新たにセネタース(現在の
日本ハム)の加盟も承認された。
ボールやバットなどの用具は西宮球場に“保管”されていた。GHQに接収されていた神宮球場の使用も許可される。東西対抗は、その神宮で第1戦、群馬県桐生市の新川球場で第2戦、西宮では第3戦と第4戦が開催された。
文=犬企画マンホール 写真=BBM