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昭和助っ人賛歌

師匠は落合? バースと本塁打王を争い、星野中日V1に貢献したゲーリー/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

愛すべき助っ人の後継


中日・ゲーリー


 かつて、同僚選手たちに惜別の胴上げで送り出された助っ人選手がいた。

 1982(昭和57)年から85年まで中日ドラゴンズでプレーしたケン・モッカである。来日1年目に打率.311、23本塁打の成績を残し、「三番・三塁」として中日8年ぶりのリーグVに貢献。遠征バスの中ではメガネをかけて読書にふける男は、ピッツバーグ大卒で土木工学修士の称号を持つインテリだったが、チームに馴染もうと新幹線の中でトランプ手品を披露したり、将棋や麻雀を覚えてナインと交流した。

 真面目な性格で日本文化にも興味を持ち、チーム関係者からもらった鯉のぼりをしっかり窓からぶら下げて喜ぶ一面も。フォア・ザ・チーム精神で、正捕手の中尾孝義がケガがちだったこともあり、2A時代以来9年ぶりの捕手に挑戦したこともある。4年目の85年シーズン、8月半ばに優勝が絶望的になり、山内一弘監督は「若手の藤王を三塁で使う。モッカは代打」と明言。『ベースボールマガジン』1994夏季号によると、それを聞いたモッカは当時の広報兼外国人係の足木敏郎氏に「それならしょうがない。代打で使われるだけでは自分にとっても球団にとってもよくない。僕は身を引こう。でも1週間はがんばる。この間に……」と相談したという。

 そこで足木氏は奔走し、テレビの全国中継があった9月19日の対巨人最終戦でのセレモニーをセッティングするわけだ。試合前、モッカはロッカールームでベンチ入り選手にお別れのひとこととプレゼントを贈る。例えば、一塁手の谷沢健一には送球で迷惑をかけたので、「高い送球も捕れるように」と虫獲り網を。遠征先からよく朝一番で帰り、会いたい恋人でもいるのかと噂になっていたある投手には、「これで早起きができるでしょう」と目覚まし時計を。気遣いとユーモアのジェントルマンは、外国人選手としては異例の引退試合で宙に舞い、ドラゴンズに別れを告げた。

 さて、そんな愛すべき助っ人が去り、86年から入れ替わりで名古屋へやって来たのが今回の主役、ゲーリー・レーシッチである。どんな仕事でもよくできる前任者からの引き継ぎは難しい。どうしても、偉大な過去と比較されてしまう。プロレスラーの武藤敬司いわく、「思い出と戦っても勝てねぇんだよ」状態である。ゲーリーもそうだった。1年目の開幕時は年俸3500万円で「打てないポンコツ外人」呼ばわりだ。それが5月に入り、リーグ86年初のサヨナラアーチや2日連続の1試合2ホーマーとド派手な活躍。左打席から引っぱり専門の典型的なプルヒッターだったが、8試合で7発の固め打ちで、四番に定着していく。リーグ10号一番乗りの本塁打は同僚の谷沢から、「左打者にはスライダーで内角を攻めてくるぞ」とアドバイスしてもらい結果に結びつけた。モッカが球団に残した教訓、真面目で素直な性格の助っ人が日本で成功する説が生きた格好だ。

昭和末期助っ人のリアル


86年、宇野(右)とともに写真に納まるゲーリー


 趣味は天体観測で星を眺めること。「キャンプのときなんか、谷沢と一緒にハレーすい星を見るために、夜遅くまで望遠鏡をのぞいたよ」と笑う『週刊ベースボール』86年6月9日号掲載の斬り込みインタビューでは、日本で衝撃を受けた投手や球場事情について饒舌に語っている。

「(広島の)津田のファスト・ボールはエクセプショナル(例外的)だよ。大リーグでもあのスピードは、指折りだと思うね」

「おととし、ルイビル(当時のカージナルス傘下3A)で29本ホームランを打ったんだけど、このとき本拠地にしていた球場が両翼302フィート(約92メートル)と日本の球場並みの広さだったんだ。ところが、フェンスが18フィート(約5.5メートル)もあってね、ボクの打ったライン・ドライブが、この高いフェンスに当たって跳ね返ってね、二塁打が多かったんだ。日本では、球場は確かに狭いけど、フェンスも横浜スタジアムを除いて、大体低いだろう。だから、(打球がスタンドに)入っちゃうんだと思うな」

 異国の地での地下鉄の乗り方やうまいレストランを教えてくれたという、兄のデーブ・レーシッチも広島でプレー経験があったが、日本野球に適応できず1年で退団。自身も31歳までアメリカであがいたが、大リーグではわずか3本塁打と結果を残せなかった。野球で稼ぐなら、もう日本で長く活躍するしかない。ちなみに当時のドル建てで給料を受け取る外国人選手たちは、85年9月のプラザ合意後はとにかく急速な円高に悩まされていた。ゲーリーも契約時点では1ドル=217円だったのが、数か月後には160円台の円高ドル安に。なんと毎月約80万円もの差額を被っていた。好景気に突入していく円高差益還元のニッポンにいながら、節約生活を強いられる昭和末期助っ人のリアルである。

 前半戦はランディ・バースと本塁打王争いを繰り広げ、6月下旬にはお互い20本のトップで並ぶほどの勢いだった。だが、チームは不振で7月5日に山内監督が解任。高木守道コーチが監督代理を務めたが、最終成績は5位に終わる。そんな中、ひとり気を吐き、巨人の原辰徳と並んでセ3位タイの36本塁打を放った背番号4は中日の数少ない明るい話題だった。

「ナゴヤは第二のふるさと」


88年、記者の取材を受けるゲーリー


 そして、星野仙一新監督を迎え、ロッテとの大型トレードで落合博満を獲得する動乱のストーブリーグを経て、87年シーズンがスタート。ゲーリーはその落合の“神主打法”を見た瞬間に「このバッティングだ!」と、自らの打撃フォームも“オチアイセンセイ”を参考に変えた。結果、終盤に離脱して規定不足ながらも前年の打率.251から.317へとアベレージを上げ、24本塁打を記録。前年リーグ最多の105三振だったのが、51三振に激減させた。『ミスター・ベースボール』のトム・セレックばりのダンディなヒゲ面や赤いリストバンドもすっかりさまになり、外野から一塁へ回ると、「三番・一塁」で落合や宇野勝とクリーンアップを組み、強竜打線は12球団トップの168本塁打を放った。

 週べ87年7月20日号では番記者が選ぶ週間MVPに選出。6月25日の広島戦で腹痛を抱えながらも出場して、初回に15号ホーマーで今季7個目の勝利打点をマーク。「下痢でもホームランのゲーリー選手に乾杯!」となんだかよく分からないギャグでエールを送られる真面目助っ人であった。名古屋市内で見かけた破魔矢を気に入り、買い求めて自室に飾るなど公私とも日本に適応していく優良助っ人。しかし、だ。皮肉なことに、確実性が上がると同時に打球角度は下がり、迫力と長打力が年々失われていく。

 3年目の88年シーズンは、落合の三塁から一塁転向にともない再び外野へ。その不調のオレ竜に代わり2カ月近く四番を任されるも、打率.293、16本塁打、53打点(ホームラン数は自己ワーストも25二塁打は前年より倍増)。結局、「ナゴヤはボクの第二のふるさと。来年とはいわない。5年も10年も中日でプレーしたいよ」という本人の願いかなわず、星野中日V1を置きみやげに34歳で日本を去った。当時四番ゲーリーと抑えの郭源治は外せないため、第三の外国人として二軍待機を余儀なくされ、シーズン中に近鉄へ移籍したのが、あのラルフ・ブライアントである。

 なお、山本リンダのヒット曲『狙いうち』が原曲のゲーリー応援歌は、のちにチームのチャンステーマとして使用されるほどファンから愛されたが、実はゲーリーの妻の名前は「リンダ」だったという。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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