大洋の傾向と特徴
プロ野球の草創期に活躍した
巨人の
沢村栄治が永久欠番とした「14」。10番台の背番号が早くから投手ナンバーとして定着したこともあり、「14」も一般的に投手が優勢だ。これは背番号の系譜に無頓着な伝統(?)のある
DeNAも同様。この2021年は左腕の
石田健大が背負う。
DeNAは1950年にプロ野球へと参加した大洋が起源。プロ野球が2リーグ制となったタイミングだが、以降、じわじわとプロ野球で存在感を放つようになっていったのが助っ人の存在だった。そこで屈指の手腕を発揮したのが大洋。助っ人の総数が増えるのに比例して、全体的にトラブルメーカーも増える傾向があったが、大洋は牛込惟浩スカウトの手腕もあって、実力と人間性を兼ね備えた助っ人が多かった。
そんな大洋は、投手ナンバーの10番台に助っ人の好打者が散見されるのが特徴。「14」も例外ではなく、昭和から平成にかけての時期に「14」を背負ったのがパチョレックだった。一般的に助っ人の打者といえば長距離砲が求められる傾向が強かったが、まず持ち味に安定感があり、そこに長打も兼ね備えているタイプの助っ人が多かったのも大洋の特徴。パチョレックも、そんな助っ人の1人だ。
抜群のバットコントロールで安打を量産した“舶来ヒットメーカー”。先輩で「7」の
ポンセからの助言もあってアジャストも早く、1年目から一塁と外野を兼ねて全試合に出場、リーグ最多の165安打、リーグ2位の打率.332をマークする。2年目の打率.333も同じくリーグ2位。この時期の大洋で長打力を一身に背負っていたのがポンセだが、パチョレックの来日3年目となる90年にポンセが不調に陥ると、パチョレックに長打が求められ、これで打撃を崩してしまう。
それでも、選手としては長距離砲タイプだった
大杉勝男コーチの指導で苦手としていた内角打ちを克服、最終的には17本塁打ながら、全試合に出場してリーグ最多の172安打、打率.326で首位打者に輝いた。だが、助っ人のタイトルホルダーを輩出しながらも優勝とは無縁なのが大洋の特徴。人間性にも問題がなく、結果を残しながら解雇される助っ人が多いのも大洋の特徴で、パチョレックも翌91年にリーグ7位の打率.310も、オフには解雇に。同じく低迷期にあった
阪神では移籍1年目から躍進に貢献している。
ただ、DeNAの「14」で助っ人はパチョレックが唯一。他のチームのように投手がズラリ……とならないのも、このチームの背番号における大きな特徴だ。
左腕は2人のみ
DeNAの系譜で「14」初の左腕は横浜時代の森中だった
初代の
中津正三は50年に南海(現在の
ソフトバンク)から大洋の結成に参加した投手だったが、翌51年には外野手に転向、その翌52年には「21」に。そこから合併した松竹にいた
椙本勝、
鈴木康司が1年ずつリレー。ともに右腕だったが、椙本は外野手に転じて、「20」でレギュラーとなった。一方、「14」で初めて3年を超えたのが55年から62年まで背負った右腕の
大石正彦。54年に入団、1年だけ「45」を着けて、「14」では57年から2年連続2ケタ勝利、60年には9勝で初のリーグ優勝、日本一に貢献した。
だが、大石の引退で63年に後継者となった新人は内野手の
関根知雄。近鉄へ移籍するまで、大石と同じ8年間「14」を背負った。関根の移籍からは投手の系譜となり、77年からは関本充宏、
佐藤道郎が2年ずつ、他のチームでタイトルホルダーとなった歴戦の右腕がリレー。佐藤は南海での「14」を大洋でも着けたものだ。そこから、のちに「11」のサイドスローとして機能する堀井恒雄が2年、二軍で完全試合もあった
増本宏が5年、パチョレックを挟んで“
遠藤一彦2世”
大門和彦が2年、低迷期に先発の一角を担った
有働克也(勝次)が3年で、いずれも右腕だった。
97年に後継者となった新人の
森中聖雄が左腕の第1号で、セットアッパーとして20世紀から21世紀にまたがりチームを支えた。2003年からダイエー(現在のソフトバンク)から来た
若田部健一、2年の欠番を挟んで08年から
小林太志と右腕がリレー。1年目の15年から背負い続け、セットアッパーとして活躍を続けている現役の石田が左腕の第2号だ。
【DeNA】主な背番号14の選手
大石正彦(1955〜62)
関根知雄(1963〜70)
パチョレック(1988〜91)
小林太志(2008〜14)
石田健大(2015〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM