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昭和助っ人賛歌

2人で通算3015安打、551本塁打…“日本三大兄弟”と称されたリー&レオンの野球人生/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

まずは兄が来日


ロッテ・リー兄弟(左がレオン、右がリー)


「通算打率.320」の金字塔。

 例え現役時代を知らなくとも、その数字に見覚えのある野球ファンは多いのではないだろうか。NPBで4000打数以上の打率ランキングにおいて長らくトップに君臨していた、レロン・リーの偉大な記録である(21年8月20日現在1位は青木宣親の打率.322)。1977(昭和52)年にロッテオリオンズに入団したリーは、10年連続の打率3割(82年のみ故障のため規定不足)という驚異的な安定度で弟のレオンとともにロッテに貢献し続けた。80年代に『キャプテン翼』の立花兄弟、マラソンの宗兄弟、そして野球のリー兄弟とスポーツ界で“日本三大兄弟”と称された、伝説のスーパー・スケット・ブラザーズの現役生活を振り返ってみよう。

 リーは高校時代、アメリカンフットボールでも鳴らしたアスリートで、66年に全体トップでカージナルスからドラフト1位指名を受ける逸材だった。1年目から1Aのカリフォルニア・リーグ新人王に選ばれ、3年目にメジャーデビュー。72年にはパドレスで打率.300、12本塁打をマークしてオールスターにも選出(骨折のため辞退)されるが、翌年に選手労組の代表に選ばれ罰金制度や黒人選手の待遇を変えようと奔走したら、球団側に睨まれインディアンスへ放出されてしまう。クリーブランドでも、さらにその次の移籍先ドジャースでも代打生活が続き、来季は新球団ができるシアトルかトロントへ行こうか迷っているところに、思わぬオファーが舞い込む。日本球界のロッテである。これまでの約2倍となる出来高ボーナス含め6万5千ドルの契約を持ちかけられ、29歳での挑戦を決断するのだ。

リーの趣味はラジコン飛行機だった


 趣味のラジコン飛行機を持参しての初来日風景は今でも語り草だが、キャンプでは打球が飛ばず「史上最低のガイジン」と酷評された。実は背番号5は、前年まで4年間ロッテでプレーして、打撃コーチを務めるジム・ラフィーバーから、日本の広いストライクゾーンについてアドバイスを受けていた。審判の判定に不満を持って自滅してしまう助っ人は多い。リーは非力だったわけではない。アウトサイドとインサイドに対応できる、柔軟なバッティングをマスターするため、右へ左へ打ち分ける練習を繰り返していたのである。時間をかけて作ったラジコン飛行機を操縦ミスで墜落させて壊しまくっているうちに、本物の飛行機に乗るのが怖くなった……という私生活のズンドコぶりとは対照的に、グラウンド上のこの男はクレバーだった。

 国光豊春通訳と信頼関係を築く一方で、マスコミから何と言われようと、焦らず日本式のコンパクトな打撃にモデルチェンジを図り、部屋では夜遅くまで王貞治山本浩二の内角打ちをビデオで研究した。すると1年目から四番打者として3割を越える打率に、34本塁打、109打点で二冠獲得。いきなりパ・リーグを代表するスラッガーとして大活躍するが、その裏では多額の税金に悩まされていたという。『週刊文春』87年12月10日号「行くカネ来るカネ私の体を通り過ぎたおカネ」という語りおろし連載で当時をこう振り返る。

「年収の20パーセントを日本の税務署に納めて、アメリカにも32パーセントをとられた。おまけにカリフォルニア州の税金もあったし、渋谷区の住民税が200万円もかかってきたもんだから、本当にまいったよ。会計士に頼んでなんとかしてもらったけど、その費用が100万円。今は日本に330日以上住むようにして、アメリカに税金を全部もっていかれないようにしてるけどね」

食って寝てバットを振って


 翌シーズンの契約面では金田正一監督が球団との間に入ってくれ、9万ドル(約2000万円)とボーナス3〜4万ドルという好条件での残留が決まると、2年目の78年には弟のレオンもロッテ入団。背番号は7で4つ上の兄と違いメジャー経験はなかったが、その分若さとパワーがあった。体のサイズは身長183cm、体重86kgと同じで風貌も似ており、プロ野球史上初の外国人兄弟誕生は大きな話題に。さらにこのシーズンは、南海を追われた野村克也もロッテで再スタートを切っており、序盤は「四番・左翼リー、五番・一塁レオン、六番・捕手野村」というスタメンもあった。リーはラフィーバーが自分にしてくれたように弟へ熱心にアドバイスを送り、当初は渋谷のマンションで同居生活をおくった。ステーキ、焼き肉、天丼、カツカレーにチャーシューメンと日本食を気に入り食べまくったが、深酒(飲んでもジントニック2〜3杯)、タバコはやらず、夜ふかしもしない。そんなハイスクール時代に戻ったかのような食って寝てバットを振る野球漬けの環境で、左打者の兄、右打者の弟は打ちまくり、『週刊ベースボール』78年6月26日号では「LEE BROTHERS」特集が組まれるほどだった。

 やがて家族が来日すると兄の部屋を出て、五反田のマンションを借りたレオンは1年目から打率3割をクリアし、2年目には35本塁打をマーク。そして80年はふたりで序盤から三冠を独占する勢いで打ちまくった。リーが打率.358、33本塁打、90打点で首位打者を獲得。レオンが打率.340、41本塁打、116打点でそれぞれベストナインに選出。兄弟で打率ベストテンの1、2位フィニッシュは史上初の快挙で、以後もいない。なお80年の山内一弘監督が率いるロッテは前・後期2位と健闘したが、“ミスターロッテ”有藤通世、同年に史上初の通算3000安打を達成した張本勲、さらにプロ2年目で1軍定着したばかりの落合博満までいる個性派軍団だった。

兄弟で歌ったレコードも発売された


 リー兄弟は球団の看板選手となり、80年9月1日にはなんと「ベースボール・ブギー」と「スーパー・スケット(助っ人)マン」の2曲が収録されたレコードを発売。同年公開の映画『ブルース・ブラザーズ』風のリー・ブラザーズ名義で、レオンは作詞にまで挑戦した。11月にはロッテの“ビッグバルーンガム”のCMにも出演。週べ80年10月27日号のリー対談では、「(レオンの弟)ミルトンはセミプロだけど、日本に来ても、十分やっていけると思うヨ。24歳とまだ若いし、足はオレたちよりも早い。今年、連れてくる予定もあったんだけど、来年の春にはきっと連れてくるよ。日本の野球を知っている先輩も、ここにこうしていることだし」と新たなる戦士の来日を予告する。このプランは外国人選手枠の関係などもあり流れてしまったが、リー三兄弟結成が実現していた可能性もあったわけだ。82年には念願の複数年契約を勝ち取り、翌年に日本人女性と再婚するリーが球団最高の年俸4800万円、レオンが年俸4200万円と名実ともにチームの顔となる。

82年オフに弟が横浜大洋へ


レオンは83年から3年間、横浜大洋でプレー


 しかし、だ。次第にそんな日本生活を満喫するふたりに大物OBが苦言を呈すようになる。81年にロッテは日本ハムとのプレーオフを控え川崎市内のホテルで二日間の合宿をするが、リー兄弟だけは合宿に入らなかった。その年限りで引退する張本勲が山内監督に彼らをもっと厳しく指導してほしいと頼むも、「(調整は)本人たちにまかしておけばいい」とあしらわれたという。82年シーズンには落合が自身初の三冠王を獲得。翌年の一塁転向に備え、球団は30代中盤のリーの放出を画策したが、ヒザを負傷して守備は厳しいという理由からレオンがセ・リーグの横浜大洋へトレードされる。

 所属リーグが分かれたリー兄弟だったが、レオンは大洋1年目に30本塁打。常に一緒だった兄と離れたことにより、日本人の同僚たちに誘われ一緒にカラオケへ通うようになる。そんな弟に負けじとロッテに残った兄も打ち続ける。毎年3割を超える打率に30本前後のホームランを記録。80年代中盤、全盛期を迎えていた落合とリーの三・四番コンビは球界屈指と恐れられた。不運だったのはレオンの方だ。大洋3年目の85年に打率.303、31本塁打、110打点。1試合10打点のセ新記録も樹立したシーズンオフに突然解雇を告げられたのだ。この成績でもクビを切られちまうのか……、ガイジンの宿命を痛感した。

 マーティ・キーナートが週べ連載「ALL TIME 外国人ベストプレーヤー」で明かしたところによると、レオンは翌年のチームカレンダーに自分がいないことに不安を覚え、球団事務所へ出向いたら「自由契約はありえない」と言われ、安心して帰国した二日後に自由契約の電報が届いたという。すぐ日本に戻り、大洋と不毛な話し合いをしたのちホテルに戻った途端、ヤクルトから契約を結びたいと電話が入る。裏で移籍話が進んでいたのではないか、なんてブチギレてもおかしくない状況で、86年のレオンは新天地で130試合フル出場、打率.319、34本塁打、97打点の好成績を残し、意地を見せた。同年、ロッテのリーは38歳になり自己ワーストの25併殺打とさすがに脚力は衰えたが、バットの方は打率.331、31本塁打とまだまだ健在だった。

ともに87年が最後の1年


 巨人クロマティはそんなリーを「ゴットファーザー」と呼び、他球団の助っ人選手たちもビッグボスに日本球界での生き方を相談した。最強の兄弟の最後の1年は、ともに87年シーズンだ。リーが来日11年目、レオンが10年目。20代で日本にやって来た彼らも、とっくにベテランと呼ばれる年齢になっていた。リーは腰痛に悩まされ、有藤新監督は左投手が出てくると背番号5をベンチに下げた(長年、西武のサイド左腕・永射保を苦手にしていた)。さらに2年連続三冠王の落合が中日へ移籍したことにより、リーへのマークが厳しくなり、重要な場面で勝負を避けられるケースも増える。打率.272、9本塁打と来日以来最低の成績に終わり、チームは5位。やはり39歳の年齢面がネックとなり、西武と巨人の日本シリーズで盛り上がる最中にひっそりと功労者の退団が発表される。川崎球場での最終戦にピンチヒッターでもいいから出て、ファンにサヨナラを言いたかったという本人の希望が実現することはなかった。

87年、レオン(左)はヤクルトでホーナーとプレー


 リーが落合の移籍に悩まされたように、ヤクルトのレオンの運命もひとりの大物選手により大きく変わった。87年開幕後に入団の決まったボブ・ホーナーの世話係を任せられ、心身ともに疲れきっていたのだ。メジャー経験のないマイナーリーガーが、MLB通算218発を放ったエリート大リーガーの世話役を務めるのは当然という雰囲気に悲しさを感じたという。それでも打率.300、22本塁打と一定の成績を残すが、実は足を故障した際にバイ菌が入り、一時は医者から「これ以上酷くなるなら足の切断を覚悟してほしい」というコンディションでのプレーを余儀なくされていた。35歳で年俸6000万円。日本での圧倒的な実績を考えれば決して高くはないように思えるが、ヤクルトはホーナーとの契約延長を狙い、レオンと再契約することはなかった。

 リーは生涯打率.320、通算1579安打、283本塁打、912打点。レオンが打率.308、通算1436安打、268本塁打、884打点。ふたり合わせて計3015安打、551本塁打とまさに助っ人史上最強の兄弟だ。なお前述の週べ78年6月26日号のグラビアページには、「愛妻のパメラ夫人、ひと粒ダネのデレックちゃんとともに電車で球場入りするレオン」という微笑ましい写真が掲載されているが、この膝に抱かれた幼子こそ、のちにメジャーリーガーとして活躍するデレク・リーである。MLB通算331本塁打、05年には首位打者も獲得したスター選手だった。

 ある意味、レオンの息子は、ホーナーを超えてみせたのである。
 
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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