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平成助っ人賛歌

大リーグの最新流行を日本球界に持ち込んだ“オシャレ番長”11打席連続安打のレイノルズ/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

現役バリバリの大リーガー


大洋・レイノルズ


野茂英雄、颯爽デビュー!トルネード大旋風」

 雑誌「よみがえる1990年代のプロ野球」PART.7『別冊ベースボール』1990(平成2)年編の表紙を飾るのは、近鉄バファローズの背番号11だ。

 藤田巨人吉村禎章のサヨナラ弾で史上最速リーグVを決め、日本シリーズでは西武がその巨人を4連勝で一蹴。中日落合博満が37歳にして34本塁打、102打点の二冠獲得で中年の意地を見せ、オリックスの42歳・門田博光も31発を放ち、“ブルーサンダー打線”の中核を担った。前年には“オバタリアン”が流行語になったが、おじさんたちも負けじと24時間戦っていた。

 ちなみに野村克也が、ヤクルト監督に就任したのも90年だ。捕手から二塁へコンバートさせた飯田哲也のキャッチャーミットを見て、「お前はもう必要あらへんやろ。俺が下取りしたる。いくらで買えばええんや」と野村節。これを受けた飯田は正直に「2万円です」と申告すると、本当にノムさんから2万円を貰い、「マジでもらえるんだったら、もっと高くすればよかったです」なんて真顔で嘆いてみせた。

 まだドラフト候補選手の希望球団で“在京セ”というカテゴライズが生きていた時代、須藤豊が新監督に就任した横浜大洋は、“AFT”をスローガンに掲げ、7年ぶりのAクラス入りを果たした。もちろん“AFT”は「アタリ・ティーンエイジ・ライオット」の略ではなく、アグレッシブ(A)、ファンダメンタル(F)、テクニック(T)の頭文字から「意欲を持って基本を大事にして技術を磨いていく」という指揮官の野球哲学を表していた。

 これらは今から約30年前のプロ野球の風景だが、ページをめくる内にあることに気が付く。黄金時代の西武から9名も選出された、オールスター戦のセ・パ両リーグ集合写真でも、選手たちのズボンの“たけ”が皆短いのだ。まだ昭和の雰囲気が色濃く残るユニフォームの着こなし。そんな風景を一変させた選手が、翌91年に横浜大洋ホエールズへ入団する。R.J.レイノルズである。

 実はレイノルズは直前の90年日米野球で、全米オールスターチームの一員としてグリフィー父子らとともに来日した、現役バリバリの大リーガーだった。この年、ナ・リーグ東地区を制したパイレーツでチーム屈指の強肩を武器に外野を守り、スイッチヒッターのため主に相手が左投手の試合で先発出場していた。85年途中にドジャースから移籍して以降は毎年100試合以上に出場し続けたが、90年は95試合で打率.288、12盗塁。本塁打ははじめて0本に終わっていた。

 同僚外野手にはあのバリー・ボンズがおり(90年は打率3割・30本塁打・50盗塁を達成してMVP受賞)、目立つ存在ではないものの、高い守備力と俊足が持ち味でベンチからはスーパーサブとして重宝される選手だった。日米野球では12打数4安打、本塁打なし。まだ30歳、ニッポンのバブル好景気は終わろうとしていたが、推定年俸1億6900万円は大洋史上最高額という好待遇からも球団の期待の大きさが伺える。

独特なユニフォームの着こなし


スマートなユニフォームの着こなしでプレーした


 MLB通算605安打、35本塁打、109盗塁の大物新助っ人は91年1月末に来日すると、さっそく合同トレーニングにも参加。キャンプで外野の守備練習を積極的にこなし、ミスをすれば自ら特守を志願した。レイノルズは「大切なのは順応しようとする適応力と集中力さ」とニッコリ笑いながら、箸を器用に使いこなし、うどんや天ぷらを食べ、寿司屋のカウンターに座った。

 3月23、24日の西武とのオープン戦で背番号23はライトを守り、パイレーツ時代の同僚デストラーデを本塁、二塁で二度刺す図抜けた強肩を披露、打っては潮崎哲也のシンカーをとらえ満塁アーチ。その好調ぶりをキープし、開幕の阪神戦では「三番・右翼」として先発出場すると、いきなり4安打デビューを飾る。4月29日の巨人戦では、同点で迎えた9回裏に当時リーグ最速投手と称された木田優夫の速球に対して、バットを短く持ち鋭いスイングで初球を狙い打ち。レフトオーバーの打球は来日初のサヨナラ打となり、チーム18年ぶりの4月単独首位を決める立役者となった。

 なお祝福するナインの輪の中で遠慮がちにレイノルズの肩を抱く若者が、弱冠20歳の谷繁元信である。

 その成績以上に話題になったのが、独特なユニフォームの着こなしだ。ズボンのたけが他の選手より長く、裾はくるぶしあたりまで隠している。日本のファンには見慣れないスタイルだったが、大リーグでは90年代流行の着こなしだった。さらに背番号23はこれまた珍しいハイカットのスパイクを着用。パイレーツ時代の親友で、メッツへ移籍したボビー・ボニーヤが最初に採り入れ、こちらもメジャー最先端ファッションになっていた。

 その後、NPBにも広まっていくこれらのスタイルを日本で初めて披露したのが、レイノルズだったのである。「見栄えだけじゃなくて、ケガ予防とか足にフィットして走りやすいとか機能的な狙いもあるんだ」という理由はあったが、その整えられた口ヒゲと長い足を強調するユニフォームの着こなしは圧倒的に格好良かった。

 なお、『ベースボールマガジン』92年夏季号によると翌年に大洋へ入団したラリー・シーツも、通訳に最初にした頼み事が「自分のズボンのたけをもっと長くできないか」だったという。

 平成球界のファッション番長として、日本球界に革命を起こしたハマの足長おじさんだったが、人工芝球場の多い日本でヒザの怪我を悪化させてしまう。両打ちの右打席が不振に陥るも、夏場には調子を上げ、8月1日中日戦の第3打席で今中慎二からタイムリーを放つと、第4打席も二塁打。続く横浜スタジアムでのヤクルト三連戦でも、2日に4打席連続、3日は3打席連続安打。この時点で球団記録を塗り替える9打数連続安打だ。

 日本タイ記録の10打数連続安打への挑戦となった4日の第1打席で、宮本賢治からレフト前へタイムリーを放ち並ぶと、第2打席では第8号2ランアーチをかっ飛ばし、メジャー流に淡々とベースを一周。ホームインすると、ようやく持ち受けるパチョレックと派手なハイタッチを交わし、11打数連続安打の日本新記録樹立を祝った。なお、右打席を評価されたアメリカ時代とは対照的に、11本中9本が左打席からの安打だった。

「靴を見れば人格が分かる」


 このシーズン、開幕ダッシュに成功しながら5月に息切れした大洋は5位に終わったが、ひとり気を吐いたレイノルズは打撃だけでなく、ヘッドスライディングやアグレッシブな守備でもチームを引っぱり、リーグ5位の打率.316、15本塁打、80打点、17盗塁。外野手としてベストナインとゴールデングラブに輝いた。『週刊宝石』91年6月27日号では、その伊達男ぶりを特集。無類の靴好きで、ロス郊外のダイアモンドバレーにある自宅には、クローゼットからガレージまで160〜170足の靴が置いてあるという。日本にはそこからお気に入りの50足を持参。“着る物は金を出せば買えるが、靴は手入れが大切。だから靴を見れば人格がわかる”なんてファッション哲学を持つ大リーガー。大洋担当記者はそのダンディズムをこう語る。

「着る物もおしゃれですよ。同じスーツを二度着ているのを見たことがないですね。グリーンや茶系統で、それほど派手な物ではないのに、レイノルズが着ると、とにかく派手に見えるんです。胸のポケットにはビシッとたたんだハンカチ、左の耳にはダイヤのピアス」

来日3年目の93年は近鉄でプレーした


 ヨランダ夫人はプロの歌手で、レイノルズ自身も音楽好き。日本での新居にドラム専用の練習部屋まで作る入れ込みようで、「引退したら、ワイフのバックで叩きたいね」と夢を語った。2年目の92年は19本塁打を放つも、打率.248と低迷。翌93年には近鉄バファローズへ移籍すると、「三番ブライアント、四番石井浩郎」のあとの五番を打ち、打率.298、18本塁打の成績を残すが、この年限りで退団した。93年9月25日のダイエー戦では、遠征先の福岡ドームにビジターユニフォームが届かず、同僚の吉井理人のユニフォームを借りて出場。試合途中に航空便が到着すると急いで着替えて打席に向かった。始まりから終わりまでユニフォームが話題になるのも、またオシャレ番長らしい日本生活3年間の締めである。

 なお、メジャー時代はロッカールームのアルバイトボーイがいるため、一度も自分でスパイクを磨くことはなかったが、日本球界にそういうシステムはない。しかし、そこで「アメリカではこんなことはしないぞ」と不貞腐れるのではなく、レイノルズは「キレイになるのが面白い!」と喜んで自ら熱心にスパイクの手入れをしたという。

 ちなみに靴を愛したレイノルズのあだ名は、“Mr.シューズ”である。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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