5代目は初の日本一で輝いた牧田
古くから選手の名前にちなんで背番号が与えられたと思しきケースは散見される。すでに紹介したものでは、戦前の
阪神でライバルの
巨人を相手にノーヒットノーランを達成した
三輪八郎の「38」などが分かりやすい。戦後、昭和の時代には、その巨人で右腕の
関本四十四が自ら希望して「44」を着けたこともあった。平成に入ると、
ロッテの新人
サブローが「36」に。いずれも2ケタの背番号だ。
一方、1ケタの背番号となると、語呂合わせで遊びにくくなる、ということもありそうだが、それ以前に、プロ入り前からのスター選手が与えられるか、あるいは結果を残して勝ち取るもの。名前に数字が入っているからといって、その背番号を着けるケースは少なくなる。
オリックスでブレークする前の
イチローが鈴木一朗だからといって1年目から「1」を与えられるものでもない。前述したサブローは「2」を経て「3」になっているが、これも結果を伴ってのものだ。
時は流れて21世紀。名前に数字が含まれる古風な名前の若者も貴重となった昨今だが、2016年に楽天で新人の茂木栄五郎が1年目から「5」を与えられた。早大で主力だった茂木だが、ドラフト3位での入団で、同じ早大からではドラフト1位で11年に
日本ハムへ入団した
斎藤佑樹(日本ハム)のようにスター選手として迎えられたわけではないから、1ケタの背番号であることも含めて、大抜擢といえるだろう。これに茂木は応える。開幕から遊撃手として先発出場、そのままレギュラーに定着して、2リーグ制で初めて新人として2本のランニング本塁打をマークするなど躍動。新人王こそ逃したものの、その後も主力野手として楽天を支え続けて現在に至っている。もちろん、背負うのも「5」のままだ。
12年から楽天の背番号「5」を背負った牧田
一般的に「5」には強打を兼ね備えた万能タイプの内野手というイメージがある。現役の茂木も、そんな選手の1人だろう。ただ、他のチームに比べて歴史が浅い楽天の「5」としては、こうした一般的な傾向に茂木で完全に合流したといえる。05年からプロ野球に参加した楽天の「5」は、なかなか安定した系譜にならず、独自路線に傾きかけていたようにも見えた。ただ、茂木で大ブレークするより前に、楽天の「5」は徐々に存在感を増している。現時点で楽天のリーグ優勝、日本一は13年の1度のみ。この13年の巨人との日本シリーズで、日本一を決めた第7戦(Kスタ宮城)で唯一の本塁打を放ったのが「5」の
牧田明久だ。
初代は流浪の内野手
牧田は「5」では少数派の外野手。近鉄にとって最後のVイヤーとなった01年に入団、05年に分配ドラフトで楽天に転じて、近鉄の“永久欠番”から引き続いて楽天の初代「63」となり、一軍デビューも果たしている。その後は堅守で頭角を現し、2チームにまたがって11年間「63」で過ごした牧田だったが、12年に「5」へと変更すると、初めて出場100試合を突破、規定打席にも到達して、自己最多の9本塁打、迎えた13年はペナントレースでは故障で長期離脱もあったが、最後の最後でチームに初の日本一を確固たるものにするダメ押しのソロ本塁打。その後はレギュラーから遠ざかり、「5」を茂木に譲る形で16年には「25」に変更、楽天の創設メンバーで現役を続ける唯一の選手となるも、そのオフにユニフォームを脱いでいる。現時点で茂木はリーグ優勝も日本一も経験しておらず、頂点に輝いた楽天の「5」は牧田が唯一だ。
牧田は日本人の選手としては歴代3人目。初代は移籍を繰り返した内野手の
斉藤秀光だ。1994年にオリックスへ入団した斉藤は、阪神での2年間を経て04年にオリックスへ復帰、自己最多の104試合に出場するも、そのオフには分配ドラフトで楽天へ。初めて1ケタの背番号を着けた斉藤だったが、翌06年シーズン途中に
ソフトバンクへ移籍、最後は横浜(現在の
DeNA)で流浪のキャリアを終えた。
斉藤が去った楽天の「5」も流転が続き、06年の閉幕までバレント、08年シーズン途中から
セギノール、10年はフィリップスと助っ人が短期間リレー。1年の欠番を挟んで5代目となったのが牧田だ。
【楽天】主な背番号5の選手
斉藤秀光(2005〜06)
セギノール(2008〜09)
フィリップス(2010)
牧田明久(2012〜15)
茂木栄五郎(2016〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM