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昭和助っ人賛歌

星野中日V1の立役者、あのイチローも少年時代に憧れた“踊る守護神”郭源治/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

81年途中に中日入団



 プロ野球の昭和ラストシーズン、ビール掛けは中止となった。

 1988(昭和63)年秋、昭和天皇が病に臥せ、日本列島に自粛ムードが広がった。セ・リーグを制した星野中日のビール掛けは中止となり、“優勝祝勝会”ではなく“慰労会”という形で行われ、パ・リーグでV4を達成した西武ライオンズの西武百貨店Vセールも自粛。秋の明治神宮野球大会は中止となり、家庭のテレビでは『笑っていいとも!』のオープニングテーマ「ウキウキWATCHING」が歌われなくなり、日産・セフィーロCMから井上陽水の「皆さんお元気ですか」という音声が消えた。

 そんな社会状況の中で行われた88年10月7日の中日対ヤクルト戦、勝って6年ぶりのVを決めた星野仙一監督の胴上げ時、興奮状態のファンが一斉にグラウンドへ乱入。身の危険を感じた選手たちは逃げるようにダグアウトへ下がり、これには胴上げで軽やかに宙を舞うためサウナで10キロも減量した41歳の若き闘将も激怒する。予定されていた球場での優勝セレモニーは中止となったが、記念すべき夜にナゴヤ球場のマウンドで歓喜の涙を流し、雄叫びをあげた胴上げ投手は、“踊る守護神”として獅子奮迅の活躍を見せた背番号33の郭源治である。

 台湾出身の郭が中日に入団したのは81年7月、24歳の夏のことだ。大学卒業後の軍隊では落下傘部隊に所属。兵役中の81年1月に社会人野球選手が中心の日本代表チームとの対戦で完封勝利を収め注目を集めた。以前から郭にグラブやボールを提供してきた中日だったが、外国人選手のスパイクスがペナント序盤で足を痛め途中解雇されると、「今度はピッチャーを補強してくれ」という現場の声もあり、台湾の逸材の獲得を決める。背番号30、年俸450万円、契約金は当初1000万円を提示されたが、「それじゃ家を新築する足しにもなりません」と250万円上積みしてもらった。“源治”という名は、父が太平洋戦争で知り合った日本の特攻隊員からもらった名前だという。

 中日との入団交渉の席に向かう途中、ラッシュに巻き込まれたタクシーを降りて病気で歩行困難の父を背負い約束の場所へ急いだ。決して裕福な生活環境ではなかったが、初めて日本のプロ野球を観戦したのは12歳のとき。リトルリーグ「全龍隊」でエースを張り世界一に輝くが、極東リーグ優勝のご褒美に招待された後楽園球場の二階席から、王貞治のホームランを目撃する。興奮した少年は、いつか自分もここで投げたいと心から願った。それから12年後、81年8月30日の大洋戦(横浜)ダブルヘッダー2試合目に先発。6回7安打2失点で初登板初勝利を挙げ、直球は当時のスピードガンでは球界トップクラスの151キロを記録した。ちなみに一軍合流は8月26日の巨人戦からだったが、この日は後楽園球場で伝説の珍プレー“宇野勝のヘディング事件”が生まれた試合でもある。世界の王のホームランを夢見たら、現実はウーやんのヘディング……そんな日本生活のスタートだった。

星野監督の指令でクローザー転向


87年、最優秀救援投手に輝き、ファイアマン賞が贈られた(左。右はロッテ・牛島)


『週刊ベースボール』81年9月14日号には「ベールを脱いだ“第三の男”」記事が掲載され、近藤貞雄監督の「スピードは小松とまったく互角です。日本の野球に慣れれば、どんどん勝ってくれるはず」というコメントに加え、高英傑(南海)、三宅宗源(ロッテ)に次ぐ第三の男で「ブルース・リーに似た風貌の台湾の星」と紹介されている。アメリカ人選手と違って通訳はつかないため、必死に日本語を覚えた。慣れない日本食は味つけが甘すぎるので、香辛料をたくさんかけてかき込む。待遇は日本人選手と同じだが、立場は助っ人選手。自分より年俸が数十倍上の元メジャーリーガーたちと一軍の外国人枠を争わなければならない。ハングリーな右腕は中日がリーグ優勝した82年は9勝、3年目10勝、4年目の84年には13勝を挙げてローテの中心に定着する。巨人の原辰徳を苦手としていたが、ピンチでマウンドに来た山内一弘監督からはこう励まされた。

「そんなもの、怖がって野球ができるかい。お前、パラシュート部隊におったんやろ。パラシュートで飛びおりるほうがずっと怖い。それに比べたら原なんて……」 

 3年連続200イニング以上を投げ(85年はリーグ最多の230回3分の1)、4年連続2ケタ勝利を記録。オールスターにも選ばれ、開幕投手も経験した。背番号33に替え、年俸も来日時の10倍近くまで上がった。彼のあとに続こうと、郭泰源(西武)や荘勝雄(ロッテ)といった台湾投手が続々と日本球界にやってきた。先駆者としての役割を十分に果たしたのだ。そして、7年目を迎えようとしていた86年オフ、あの男が中日監督に就任する。39歳の星野仙一である。新チームの目玉として、1対4の大型トレードでロッテから落合博満を獲得したが、クローザーの牛島和彦を失った。そこで代役に指名したのが、郭だった。しかし、当初は先発に未練がある本人がリリーフ転向に難色を示す。そこで星野自ら、こう説得したのだ。

「ゲンジ、俺はおまえを外人とは思わない。日本人と同じにおまえを考えている。この世界は働いてなんぼの世界だぞ。やればやるだけ評価してやる。使い捨てなんかには絶対しない。チームのためにおまえの力を貸してくれ!」

 タフネス右腕の過去6年は55勝51敗。無尽蔵のスタミナを誇る一方で、ときに集中力が途切れてポカも多い5割投手だった。それが抑え投手に転向した87年、回復の早い筋肉にタフなハートを武器に短いイニングを投げまくる。この新たな仕事が30代に突入した右腕にはハマった。87年は30SPで最優秀救援投手を獲得。チーム2位の原動力になり、ファイアマン賞の賞金100万円を中継ぎの(乱闘でクロマティに殴られた)宮下昌己に気前よくプレゼント。88年1月に郭の結婚式の挨拶に立った星野は、「ウチの先発陣の給料は、ゲンジの腕にかかっています。そのゲンジは、奥さん、あなたにかかっています」なんつって元ミス日本の新妻に遠慮なくプレッシャーをかけた。

一躍全国区のスターに


88年、星野ドラゴンズ初優勝の胴上げ投手に


 そして、昭和最後の88年シーズンを迎えるわけだ。守護神は5月末までに4敗(三度のサヨナラ負け)を喫するなど序盤こそ不安視されたが、6月以降は投げれば負けない“郭神話”が確立しセーブの山を積み重ねる。7月に台湾の実弟を交通事故で亡くす悲しみを乗り越え、優勝マジックが点灯するころには郭はチームメートから“ミスター・ジャガー”とあだ名をつけられる。シーズンMVPに贈られる高級車ジャガーはゲンジのものというわけだ。82年Vを決めた最終戦ではベンチ入りを外される屈辱を味わった。あの悔しさは忘れられない。今度は最後までマウンドに立ち続けてみせる。勝利の瞬間に叫び、飛び跳ねるド派手なガッツポーズで一躍全国区のスターの仲間入り。61試合に投げ、7勝6敗37セーブ、防御率1.95。44セーブポイントは当時のプロ野球記録だった。間違いなく、名古屋が燃えた星野中日V1のど真ん中にいたのは背番号33である。

 オフの契約更改では年俸9300万円にタイトル料を加えて1億円を突破。母国では中日新聞の協力を得て、家計を助けるために野球をやめて働く子どもたちを援助する「中日アカデミー郭源治奨学金」制度も始まった。しかし、だ。88年の郭は61試合で111回と回またぎ当たり前の働きぶりだったが、その登板過多は確実に身体にダメージを残した。89年4月28日の巨人戦では1点リードの延長11回にマウンドに登るも、星野監督と言葉を交わし、1球も投げずに降板してしまう。違和感を抱えていた左太ももが、投球練習を始めたら固くなってしまった。『週刊ポスト』89年6月9日号では「疑惑のゼロ球降板から1か月 郭源治に「星野監督との確執、仮病説」をぶつける」というインタビューが掲載され、あの試合でボスがマウンド上で見せた呆れたような笑みについて、こう答えた。

「いつも監督はマウンドに来たら冗談を言っている。野球の話をしないんですよ。たとえば翌日が移動日とすると“明日は笑顔で新幹線に乗ろうぜ”とか、“あの(先発)ピッチャーに1勝やってよ”といった言い方をするんです。結構、冷静なんですよ。見てて怖いでしょう? ボクはもう慣れたけど、怖さの中に優しさがあるね。ボクはそう思ってる」

引退試合で用意された感謝の大舞台


ナゴヤドームのオープンニングゲームで行われた引退試合で胴上げされた


 89年は夏場に12試合連続セーブポイントと盛り返し、最終的に5勝25セーブを挙げたものの、日本に帰化して外国人選手枠を外れた10年目の90年は左腹斜筋挫傷で離脱。剛腕ルーキー与田剛に抑えの座も譲った。だが、翌91年に先発復帰すると6月9日の大洋戦(札幌)では5年ぶりの完封勝利を飾り、35歳にして13勝と復活。92年は右ヒジを痛め4勝に終わるが、93年にはクローザー再転向で通算100セーブに到達した。通算100勝を達成する94年は防御率2.45でキャリア初の最優秀防御率を獲得。しかし、30代後半に差しかかるとアキレス腱痛から走り込みができず、右ヒジの痛みは1か所ではなく全体に広がった。わずか5試合の登板で未勝利に終わった96年オフ、40歳を迎えた右腕は祖国への恩返しとして、翌シーズンから台湾プロ野球で投げる決断を下す。

 その96年の中日は長嶋巨人と最後まで優勝を争ったが、10月6日のナゴヤ球場さよならゲームで宿敵に敗れ2位でフィニッシュ。翌日、郭はこのシーズンから監督復帰していた星野に「ありがとうございます。監督」と挨拶すると、「よくやった」と16年間に渡る中日への貢献をねぎらわれたという。このとき、「もう1年やれ」と言われたら、もう1年日本でプレーしていたと郭はのちに明かしている。

 先発に抑えに投げまくり通算496試合、106勝106敗116セーブ、防御率3.22。この功労者に対して、セ・リーグから会長特別賞が送られ、球団と星野は感謝の大舞台を用意する。97年3月18日、完成したばかりのナゴヤドームの記念すべきオープニングゲーム、中日対オリックス戦で先発投手としてマウンドに送り出したのだ。すでに台湾プロ野球の統一ライオンズで選手登録されており、1日限定の中日凱旋。チケットは発売直後に完売、12時40分の開場時には外野自由席に3000人のファンが詰めかけ、超満員4万500人の大入りとなった。そこで背番号33は、オリックスの先頭打者を中飛に抑え、マウンドを山本昌に託す。試合後はゲンジコールが鳴り響く中、グラウンド一周でファンに別れを告げると、ナインからは惜別の胴上げ。ベンチ前の星野監督と抱擁して、16年間の日本生活にピリオドを打った。

引退試合では当時オリックスのイチローとも対戦した


 さて、この日、郭の最後の対戦相手となった、オリックス一番打者のコメントが週べ97年4月7日号に掲載されている。

「少年時代のあこがれの人です。引退なさるのは非常に寂しいですが、最後の打者になれたことを光栄に思います」

 真新しいナゴヤドームで、夢の時間を振り返る背番号51。そう、愛知で生まれ育ったイチローにとって、郭源治は少年時代のヒーローだったのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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