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背番号物語

【背番号物語】ロッテ「#0」初芝清は「0なんて背番号じゃねえ!」と言われ…近年は異色の同姓リレー

 

ユニフォーム刷新とともに復活



 プロ野球では1983年に広島で初めて登場した「0」。このとき第1号となった長嶋清幸がブレークしたことで他のチームにも普及していき、20世紀の最後には「0」の選手が当時の12球団すべてで並び、そのまま21世紀を迎えた。ロッテで初めて登場したのは昭和で最後のシーズンとなった1988年で、日本ハムから来た右腕の坂巻明が着けたものだ。

 21世紀に誕生した楽天では創設1年目から「0」の選手がいるなど、プロ野球に定着したかに思える「0」だが、そもそも“無”を意味する数字でもあり、これには「0」が登場した当時から少なからず異論があるのも事実だ。坂巻のいた日本ハムでは現在の北海道へ移転してから更新がストップしている。ただ、「0」に敢然と異を唱え(?)、この発言によって「0」の選手が背番号を変更する事態に発展したのは、おそらくはロッテだけではないか。発言の主は、のちに監督も務めた山本功児コーチ。「0」から変更したのは坂巻の後継者で2代目の初芝清だ。

 こう書くと最近ならパワハラなどと騒がれそうだが、それほど深刻な話でもない。まだ本拠地が川崎球場で、ニックネームもオリオンズだった時代のロッテで、ドラフト4位で入団した89年に引退した坂巻の「0」を与えられた初芝は、1年目から頭角を現したこともあって、「0」を大いに気に入っていたという。だが、ロッテが現在の千葉へと移転して2年目の93年、「0なんて背番号じゃねえ!」と言ったのが山本コーチだった。これを受けて初芝は「単純なんで、そうかなって思った」のだとか。これで背番号を変更。翌94年に背負ったのが、まさかの(?)「6」だった。かつては3度の三冠王に輝いた落合博満が着けていた背番号。この変更で、さらなる飛躍を遂げた初芝は、いつしか“ミスター・マリーンズ”の異名を取るようになった。

 初芝の離脱で94年は欠番。ふたたび“事件”が起きたのは95年だった。現役バリバリのメジャー・リーガーで、来日するや否やピンク基調のユニフォームを「気に入らない」とデザインを一新させるという離れ業(?)を見せたフリオ・フランコ。背番号は右腕の小宮山悟が着けていた「14」を希望、こだわりがあった小宮山が拒否すると、フランコはピンクのユニフォームで仮の「4」を着けてキャンプには参加したが、続いて右腕の吉田篤史が着けていた「21」を希望した。フランコに「21」を譲ることを承諾した吉田が、一新されたユニフォームで背負った新しいナンバーが「0」だった。このときのユニフォームは現在に連なるデザインの原型といえるものだ。

故障が続くも……


ロッテ・諸積兼司


「0」でリリーバーとして再起を果たした吉田は2年で「13」に変更。97年に4代目となったのが諸積兼司だ。諸積はドラフト5位で入団した94年に「00」の3代目となった外野手で、2年目の95年にブレークして、4年目に1ケタの「0」に“出世”(?)。2006年オフに現役を引退するまで10年間を「0」で過ごし、歴史が浅い背番号ではあるものの、歴代で初めて10年間の大台に到達している。

ロッテ・荻野忠寛


 翌07年に「0」の5代目となったのは右腕の荻野忠寛。大社ドラフト4巡目で25歳となるシーズンに入団、ロッテの投手としては2代目となる「0」で即戦力となると、いきなり2年連続で58試合に投げまくって、1年目はセットアッパーとして20ホールド、2年目の08年にはクローザーとして30セーブ。3年目の09年もリリーバーとして53試合で9セーブ10ホールドと結果を残したが、その後は故障との闘いに。7年と短いキャリアに終わったが、一貫して「0」を背負い続けている。ロッテの「0」としては他の背番号を知らない最初の選手となった。

 ポジションも時代も違うが、諸積とは社会人で同じ日立製作所に在籍していた荻野忠。その引退から2年の欠番を挟んで後継者となったのが、やはりポジションは違うが、外野手で同姓の荻野貴司。プロ8年目にして「4」から「0」に変更、先代と同様に故障の多いタイプではあるものの、19年に初めて規定打席に到達、この21年は打撃も好調だ。

【ロッテ】主な背番号0の選手
初芝清(1989〜93)
吉田篤史(1995〜96)
諸積兼司(1997〜2006)
荻野忠寛(2007〜14)
荻野貴司(2017〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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