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平成助っ人賛歌

「終わった投手」から「広島エース」となったコルビー・ルイス。黒田の穴を埋めマエケンに時代をつなぎ「英雄」へ/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

右腕に届いた思わぬオファー


広島・ルイス[写真=BBM]


「野球の監督というものは、情熱がなくなった人間がやるものではない」

 2008(平成20)年5月21日、オリックスのテリー・コリンズ監督が、「(指揮を執るには)炎のように、燃えるものが必要だ。私の中で、その火が消えてしまった」と突然の辞任を発表した。球場選手食堂での緊急会見でコリンズは「大きなチャレンジだったし、失敗したとは思っていない」なんて強がってみせたが、メジャー通算444勝の実績をひっさげ、“ワン・ハート・ビート”のスローガンを掲げるも最下位に沈んだ1年目に続き、この2年目も低迷。オリックスは左ヒザ手術からの復活を目指した清原和博、大砲を並べた迫力満点のビッグ・ボーイズ打線、隙あらばシルク姐さんと会食……と話題は豊富だったが、前日に最下位を脱出したところで心折れ白旗となった。

 ちなみに07年当時、NPBではボビー・バレンタイン(ロッテ)、トレイ・ヒルマン(日本ハム)、マイク・ブラウン(広島)、そしてコリンズと4人もの外国人監督が指揮を執っていた。急激にアメリカ球界との距離が近くなったように感じられたものだが、同時期に日本人選手も07年5名、08年5名と続々とメジャー移籍を果たす。そのうちの一人が広島カープの黒田博樹で、球団が5年連続開幕投手を務めたエース黒田の穴を埋めようと獲得した新外国人右腕が、コルビー・ルイスである。

 ルイスは03年にレンジャーズで10勝を挙げた大型右腕だったが、04年に肩を痛めると手術を受け解雇。リハビリ後はマイナー生活が続いた。ナショナルズに所属していた07年春には、妻の出産立ち会いのためキャンプ地を一時的に離れ、病院へ向かったタイミングでGMからの電話で解雇を通達された。なにも初めての息子が産まれる記念すべき日に告げることはないじゃないか……。一生忘れない07年3月19日の屈辱から4日後、アスレチックスに拾われ、ホワイトソックス戦で3年ぶりのメジャーでの先発マウンドへ。しかし、4回途中10失点の大炎上。すでに20代後半に差し掛かっていたルイスは、最後のチャンスを逃したかのように思われた。だが、そこに思わぬオファーが届く。日本の広島カープからのラブコールである。

日本では“ストレス”に悩まされずに


08年4月3日の阪神戦[広島市民]で日本球界初勝利をマークしてブラウン監督[右]と握手[写真=BBM]


 3年ほど前から右腕をマークしていた広島は、3Aサクラメントで15試合に先発して、8勝3敗、防御率1.88の好成績を残した右腕の再生が可能だと判断したのだ。エース黒田のメジャー挑戦はすでに秒読み段階に入っており、来季のために柱となれる先発投手を欲していた。07年秋にアスレチックスを自由契約となったタイミングでオファー。広島の新外国人投手では近年最高クラスの年俸9500万円+出来高という好条件からも球団の本気度が伝わってくる。『ベースボールマガジン』2011年1月号にはルイスの独占インタビューが掲載されているが、そのときの心境をこう語る。

「マイナーで2カ月半いいピッチングができて、それが日本のスカウトの目に留まり、オフにオファーをもらった。こっちでは終わった選手の扱いだったから、まだ自分には仕事があることがありがたかった。野球を続けられるなら、アメリカからどれだけ離れていようと気にならなかったよ」

 そう、当時28歳のルイスは自分でも認めているように、アメリカでは伸び悩み、くすぶっていた元プロスペクトの「終わった選手」だったのである。それが広島に来た途端、ファンからエースの代役を期待され、首脳陣は一軍のスターターで使ってくれるという。だったら、ジャパンでのラストチャンスに野球人生を懸けてみようじゃないか。08年の開幕第2戦に先発した背番号11はその後もローテを守り、5月に4勝1敗、防御率1.60で月間MVPを獲得。6月15日の西武戦で両リーグ一番乗りの10勝到達。メジャー流の中4日の先発もこなし、いきなり大車輪の活躍を見せる。

「アメリカでは、一度投げそこねたらすぐマイナー落ち。(広島では)そんな心配はしなくていい。余計なストレスに悩まされることなく、先発の準備をして、試合の日になればマウンドに立つ。それを繰り返すことで自信が深まった」

 150キロ台の直球に140キロ台のスライダー、チャンジアップやカーブも織り交ぜ、ストライク先行でなるべく少ない球数でアウトを取り、長いイニングを投げることを意識した。長丁場のペナントレース、調子が悪い日もあれば、コンディションがよくない時だってある。それでも気持ちを切らさず、必死に粘りのピッチングを心がけた。外角の効果的な使い方を覚え、打者の胸元も臆せず抉る。ルイスは広島でマウンドに上がり続けるうちに、先発投手として必要なスキルを身につけていく。

「日本で驚いたのは、高校を出たばかりの若い投手でも、3、4種類の球種をコントロールよく投げること。そんな環境で自分自身もコントロールをつけられた。あとはピンチに投げ急がない、間を取ることも学んだ。(日本は)ナ・リーグのような野球というか、バントとか小技を絡めてくる。投げるだけでなく、守備機会も多い。そこはアジャストしないといけないけど、これも1点差ゲームをものにするには大切なことだった」

日本の2年間で大きく成長


 ルイスは成熟した大人だった。先発投手が登板予定のないロードゲームに帯同しなくてもいい日本球界のシステムを気に入り、家族と一緒にいられる時間が増えたと喜んだ。うどんやお好み焼きの日本食にもチャレンジし、広島城や厳島神社、そして原爆ドームへも足を運び、市内の夏祭りにも出かける。ブラウン監督とは英語でコミュニケーションを取れたが、チームメートに認めてもらえるように言動や振る舞いには気をつけた。日本文化を理解しようと努力する一方で、キャンプの投げ込みはやらずにマイペース調整を貫くクレバーさも併せ持っていた。

 Bクラスに低迷するチームにおいて、1年目は26試合に投げ15勝8敗、防御率2.68、183奪三振。178回で与四球27という制球力も光った。自身初の開幕投手を務め、ときに打者として場外ホームランをかっ飛ばした2年目の09年も29試合11勝9敗、防御率2.96、186奪三振で2年連続の最多奪三振を獲得。元プロスペクト右腕が、30歳になり日本で開花したのである。

10年に古巣・レジャーズでメジャー復帰を果たした[写真=Getty Images]


 広島とはNPBでの国内移籍禁止契約を結んでいたが、ルイスはMLB各球団から狙われる投手へと変貌していた。カープも年俸大幅増の新たな2年契約を準備したが、背番号11は家族の健康問題等もあり09年限りで退団を決意。帰国して古巣・レンジャーズと契約を交わすと、復帰1年目の10年には12勝を挙げ、創立50周年の球団初優勝に大きく貢献する。さらにリーグ優勝決定戦で2勝、ワールド・シリーズでも球団初の勝利投手に。数年前、一度はもう終わったと思われた男が、テキサスの英雄となった。振り返れば、20代の挫折が終わりじゃなく、始まりのきっかけだ。これ以降、NPBで好成績を残した外国人選手の日本球界経由、メジャー復帰のケースも増えた。前述のベーマガインタビューでも、ルイスは自分の人生を変えた日本生活に繰り返し感謝を口にしている。

「広島カープでの2年間がなければ今のコルビー・ルイスはない。(広島の)彼らが先発ローテーションの仕事をくれたおかげで、いい成績が残せたし、自信を回復できた。私の評価も変わった。2年前、選手生活を日本で終えようと頑張っていたときに、こうなるよ、と言う人がいたとしたら、頭がおかしいんじゃないかと思っただろうね。自分でも信じられない。立ち直る機会を与えてくれた広島カープ、そして再びメジャーで投げる機会をくれたレンジャーズに心から感謝している」

 そして、ルイスが退団した直後の10年春季キャンプで、「今年は開幕投手を目指します」と宣言した若手投手が前田健太である。前年8勝の21歳右腕はそのシーズン、自身初の最多勝や最優秀防御率を獲得し、沢村賞にも輝いた。あの頃、広島市民球場からマツダスタジアムへと本拠地が変わった時代の狭間で、黒田からマエケンへエースの座を繋いだのは、コルビー・ルイスだったのである。
  
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆)
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