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よみがえる1990年代のプロ野球

近鉄・野茂英雄の純情/よみがえる1990年代のプロ野球〜1991年編

 

野茂英雄がもし日本球界に残っていたら


オールスターでの野茂


 1カ月に1冊ずつ1990年代を振り返る「よみがえる1990年代のプロ野球」。まもなく第9弾の1992年編が発売になるが、その前、第8弾、1991年編で掲載した記事の一部を紹介したい。

 1991年、球界は経済面で大きな曲がり角にあった。

 不人気から赤字が積み重なっていたロッテ球団が、本拠地で閑古鳥のたまり場として有名だった川崎球場を逆手に取り『テレビじゃ見れない川崎劇場』と大キャンペーンを行った。

 ライバルは東京ディズニーランドと鼻息が荒かったが、翌年から川崎球場、73年以来のユニフォーム、オリオンズ、さらに言えば、金田正一監督と、昭和ロッテをすべて捨て去り、新天地・千葉へ移った。

 テレビ局にとってドル箱と言われたプロ野球中継の視聴率も低迷し始める。20%をなかなか超えなくなり、プロ野球の人気低迷が叫ばれた。

 ただし、4月13日のダイエー─西武戦が19.1%を記録したように、むしろ一極集中だった巨人人気が分散し始めた兆しでもあった。

 同時に、スポーツ界全体の人気の分散も進む。当時、日の出の勢いだったのが、相撲界の若貴だ。若花田、貴花田が命を削るような取り組みをし、従来相撲と縁遠かった若い女性層の支持を得た。

 さらに8月には人気者カール・ルイスが参加する世界陸上が東京であって大いに盛り上がる。

 当時文化人であった長嶋茂雄氏は
「鍛え抜かれた体が全力で集中、爆発する。昔と違って今のスポーツファンは、そういう世界のトップの迫力、魅力を堪能できるんだから、スポーツを見る目がどんどん肥えていく。日本のプロ野球はもうのんびりしていられませんよ」
 と話していた。

 同年、サッカーのプロリーグ(Jリーグ)も創設。球界の危機感はさらにふくれ上がる。

 当時の球界にも新しい風をもたらすスーパースターはいた。

 2年目の近鉄・野茂英雄だ。メディアは野茂と西武・清原和博の戦いを「平成の名勝負」と名付けた。6月4日、西武球場での西武戦では1回裏、22イニング無失点だった野茂は不振が続いていた清原にフルカウントから真っすぐを投げ、清原は35試合ぶりのアーチ。

 フォークを投げていたら三振だったと思うが、周囲はこれを真っ向勝負と称えた。正直なところ、真っすぐとフォークが武器の野茂がストレート勝負を仕掛けるのが、本当に真っ向勝負なのかと疑問に思った記憶がある。

 その答えではないが、当時の週べで、野茂が野球評論家・村田兆治氏との対談でこんなことを言っているのを見つけた。

「少年たちがね、握手したいのか、サインをもらいたいのか、僕をめがけて走ってくるでしょ。そういう真剣な顔を見るとね。僕は1球も力を抜いてはいかん。野茂は逃げる投手だなんて思われたくない。全力投球が僕の命だとしたら、もう何が何でも1回から9回まで全力を込めて投げなあ、あかんと。そうしなければ、あれだけ熱い目で僕を見てくれる少年たちに申し訳ないと思うんですよ。

 僕も子どものころ、あこがれた選手がいて、その人が力いっぱいのプレーを見せてくれと勇気が湧いてきましたからね。僕がいまそういう存在になったと思えば、どんなときでもいいプレーを見せなければ、と」

 その思い、志にしびれた。

 その後、日本人メジャーのパイオニアとなった男。彼の挑戦で日本球界、世界の野球界に新しい時代が訪れた。

 ただ、この言葉を読んだあと、彼が日本球界に残っていたらどうなっていたのだろうか、いや、いてほしかったと思った。

文=井口英規
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