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伊原春樹コラム

「初勝利の瞬間は喜びよりもホッとした」開幕12連敗を喫した西武元年/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2021年4月号では1979年の西武ライオンズに関してつづってもらった。

54日間の海外キャンプ。帰国したのは開幕4日前


ブラデントンキャンプにて(左から田淵幸一野村克也、メッツのウィリー・メイズコーチ、山崎裕之東尾修


 クラウンライターライオンズが西武に買収され、福岡から埼玉・所沢に本拠地を移転し、新球団として出発したのは1979年のことだった。私は当時、プロ9年目。30歳になるシーズンだった。何事も急ごしらえだったと記憶している。それを象徴していたのは、まずキャンプだ。静岡・下田で行われたのだが、球場ではなく広場で練習に励むことになった。そこにケージを置いて、ダイヤモンドを造ってという塩梅だ。打撃練習も下田プリンスホテルの倉庫みたいなところに打撃マシンを2台置いて、打ち込むような形だった。

 その後、2月9日からアメリカへ。フロリダ州ブラデントンで海外キャンプを張ることになったのだ。しかし、それもまさに“珍道中”だった。パイレーツのキャンプ地だったのだが、隣接している宿泊施設の厨房が気に入らなかったのか、日本から同行した調理師が「こんなところで料理を作れない」と言い始めた。仕方なく、夜は皆で近くのステーキハウスへ。こっちとしては若いから肉はウエルカムだったが、連日そのような感じに。調理師は朝食など簡単な食事を作ってくれたが、やっと夕食に取り掛かってくれたと思ったらカレーライスでずっこけた記憶もある。

 それから10日くらい経ったころだろうか。パイレーツのキャンプが始まるということで、われわれは宿泊施設から追い出されてしまった。マネジャーが探してくれたモーテル住まいとなり練習を続けることになった。そんなとき、同部屋だったカンタロー(鈴木葉留彦)が「つま先が痛くて歩けない」という。仕方ないから私が部屋に朝食を運んだりしたが、おそらく痛風だったのだろう。彼は2日間ほど練習ができなかった。

 マイナーのチームと対戦しながら調整したが、チームが2組に分かれてゲームは行われた。あるとき、外野手が一人足りないという事態に。コーチから「伊原か、鈴木のどちらかが外野へ行け」と言われたが、先輩の権限で(笑)、私が一塁、カンタローが右翼に入った。すると、試合中にフライに突っ込んでカンタローが左肩脱臼。また食事を部屋に運ぶ羽目になり、さらに「背中をかいてくれ」と頼まれ、思わず「俺はお前の世話係じゃないんだ」と言ったことも、今となってはいい思い出だ。

 その後、ハワイへ渡ってパドレスと試合を行った。当時のショートは“オズの魔法使い”と称され、80年から13年連続でゴールドグラブ賞を獲得したオジー・スミス。彼が守備に就く際、宙返りするのが印象に残っている。

 結局、海外キャンプは54日間に及び、帰国したのは4月7日の開幕戦の4日前。国内でオープン戦を一切やらなかった。当時は海外旅行がそれほど身近ではなく、長い海外生活で心身ともに疲弊してしまった。さらに、トレードなどで田淵幸一さん、山崎裕之さん、野村克也さんなど9選手が新たに加入。新外国人は2選手、新人は7選手が加わったが、「九州組」とのコミュニケーションもしっかり図れたとは言い難かったかもしれない。

西武球場での初試合も守乱で失点を重ねる


西武ライオンズ球場のこけら落としゲームに臨む西武ナイン


 不安を抱えたままのシーズンイン。開幕戦の相手は近鉄だった。球場は相手本拠地の日生。記念すべき西武ライオンズの初公式戦に私は「九番・二塁」でスタメン出場している。これは開幕直前にレギュラーである山崎さんがケガをして、私があまり守ったこともない二塁でスタメン出場することになったのだ。相手先発はエースの鈴木啓示さん。“草魂左腕”に西武打線は軽くひねられてしまい、0対3の敗戦。ここから出口の見えない連敗街道が続いていったのだった。

 5連敗して4月14日となった。この日の日本ハム戦は記念すべき西武ライオンズ球場のこけら落としのゲームだった。約50億円を投じた新球場。狭山丘陵の自然な斜面を生かして作られた掘り下げ型で、外野側ほど低く、バクネット方向に行くほど高くなる。センター後方の入り口から一塁側、三塁側へと分かれ、なだらかな上り坂の外周道路を進むと“すり鉢”が眼下に飛び込んでくる。アメリカのドジャー・スタジアムを参考に、さわやかなグリーンで統一されたスタンド、人工芝。周囲の自然と完全にマッチして、非常にきれいで開幕前、初めてグラウンドを見たときに感動したことが思い出される。

 試合当日、最寄りの西武球場前駅は家族連れが目立ったという。レオマークつきのブルーのライオンズ帽子をかぶった子どもたち。2万8000人の大観衆が期待して集まってくれたが、試合は勝てない理由が詰まったような内容だった。

 日本ハム先発の高橋直樹さんから初回、二番の立花義家が西武ライオンズ球場第1号となるソロを放ち幸先よく先制したが、拙守が足を引っ張る。4回に遊撃の益川満育がファンブル、一塁悪送球と2失策したのが響いて2失点。さらに5回には一死二、三塁で柏原純一の平凡な二ゴロで三走を挟殺したまでは良かったが、その直後、捕手の奥宮種男が二走を刺そうとして二塁へ悪送球。外野手のカバーリングもなく、ボールは右中間フェンスまで達して打者走者まで生還してしまった。

 先発の森繁和は5回を投げて被安打6、自責点0だったのに失点5。私はベンチから見ていて「まるで『がんばれベアーズ』の世界だな……」なんて思ってしまったが、目を覆いたくなるような拙守の連続にスタンドもあきれ果てた。当時の記事では田淵さんがファウルボールを一塁側へ打ち込んだ際、観戦に訪れていた“弟分”のプリンスホテルの選手がキャッチ。すかさず「お前らが代わってやれ」と声が飛び、スタンドがドッと沸いたそうだ。

 ロイヤルボックスで感染していた堤義明オーナーも8回に球場を後にしたという。試合途中の記者会見では「調子が出ないのは54日間も海外キャンプに行ったせいだろう。時差もあるし、疲れも残っている。いろいろ考えてみると、来年は海外キャンプはやめだ」と語ったそうだが、それも仕方ないことだろう。

ビクトリーロードは照れ臭かった


79年の筆者の名鑑写真


 その後も勝てずに2引き分けを挟んで12連敗。その間の失策は計25失策だ。とはいえ、私もそこに関わってしまっている。開幕後、「おまえ、スタメンはないからな」と根本陸夫監督に言われ、守備固めが主となっていた。しかし、言い訳ではないが守乱が続いた後に守備に就くと、妙に“伝染”してしまうものである。ミスをしてはいけないと、変に体が硬くなってしまうのだ。今でも覚えているのは無死か一死で三塁に走者がいて、私が守っている三塁へゴロが飛んできた。三走はホームへ突っ込み、私も捕球してすかさず捕手へ送球したが、うまく投げられずショートバウンドとなり、野村さんがポロッと落として生還を許してしまった。当時の私の三塁守備は天下一品と言われていたが、体がうまく動かない感じがあったのは間違いない。

 チームが初勝利を飾ったのは4月24日の南海戦(西武)だった。先発の兄ヤン松沼博久)が8回2失点と力投。打線も奮起して4点を奪い、15試合目にしてようやく勝利をつかむことができた。私は9に三塁守備に就き、勝利の瞬間、グラウンドにいたが、喜びよりも「やっと勝てた」と安堵した気持ちになった。末期の九州ライオンズも弱かったが、ここまで負け続けた経験はなかったから、とにかくホッとした。初めて西武球場のビクトリーロードも上がったが、妙に照れ臭かったことも思い出される。

 結局、西武ライオンズ元年は前期6位、後期5位だったが通算45勝73敗12分け、勝率.381で最下位だった。しかし、ここからドラフトで好素材を獲得して戦力の底上げを図る。私は80年限りでユニフォームを脱ぎ、コーチに転身。82年からは広岡達朗監督が就任し、同年初優勝を飾り、黄金時代の幕が開いていく。昨季には西武として3000勝を達成した。これから4000勝、5000勝を目指して、勝利を積み重ねていってもらいたいと思う。

写真=BBM
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