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昭和助っ人賛歌

バースを上回る早さで100号到達!三冠王を狙う落合ともキングの座を争ったソレイタの猛打/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

大谷のように四球攻めに



「日本のピッチャーは「いくじなし」揃いではないのか。そういいたくもなる。消極的すぎるし、あまりにもチャレンジ精神に乏しい。わたしは、日本のピッチャーのこうした態度にひどく失望したし、とても腹がたった」

 34年前、ヤクルトでプレーしたボブ・ホーナーは自著『地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった』の中でそう書いた。なぜ彼らは逃げてばかりの投球で堂々と勝負しないのかと。『週刊ベースボール』バックナンバーの歴代外国人選手インタビューを読んでも、その手の発言が定番だ。インターネット普及前で動画サイトもなかった当時は、まだ海の向こうの大リーグはリアリティがなく、「そうか、野球の本場アメリカじゃ常に真っ向勝負なんだな」なんて日本の野球少年たちは素直に思ったものだ。

 しかし令和の今、MLBで熾烈なホームラン王争いを繰り広げる大谷翔平に対する過剰な四球攻めを見ていると、どこの国、リーグでも強打者に対しては勝負を避けるのが当然なのだという当たり前の事実に気付かされる。現代の大谷翔平が、なぜ朝のワイドショーも騒ぐレベルで日本中を熱狂させているかというと、二刀流で野球界の歴史と常識を変えただけでなく、そこに長年の“メジャー最強幻想”をひとつひとつ破壊する爽快感があるからだ。まるで20年以上前に格闘技界でグレイシー最強幻想をぶっ壊した、プロレスラー桜庭和志のようにである。

 さて、その昔、日本球界には今の大谷のように四球攻めにあった外国人スラッガーがいた。日本ハムファイターズのトニー・ソレイタである。82年、ソレイタは自身初の三冠王を狙う落合博満ロッテ)とホームランキングを激しく争っていた。シーズン終盤、ロッテとの直接対決では試合展開に関係なく勝負を避けられることが増え、10月3日のダブルヘッダー第1試合でソレイタは4打席とも歩かせられる。さすがに日本ハムの大沢啓二監督が「ロッテに堂々と勝負させろ」と審判に抗議するも、ルール上は問題なし。結局、第2試合の第2打席で明らかなボール球を“抗議三振”したソレイタは「日本の野球はクレイジー」と言い残して、そのまま帰宅してしまった。『週刊文春』82年10月14日号ではこの様子を「落合を三冠王に!ロッテの露骨なソレイタ四球責め」と報じている。

 そうでもしなければ、当時のパ・リーグ本塁打王争いの大本命ソレイタに勝つのは至難の業だった。マイナー時代に49ホーマーでタイトルを獲得したことがある大砲は、メジャーでも167メートルの特大弾を放つ飛ばし屋として知られたが、守備の不安定さと左投手への弱さからレギュラー定着はならず、MLB通算打率.255、50本塁打。サモア出身初の大リーガーでもあった。子どもの頃に丸木舟をこいで腕っ節が強くなり、8歳のときに移住したハワイで野球と出合う。12歳でサンディエゴに移り、15歳からサンフランシスコへ。高卒後すぐにプロ入りして、シーズンオフにミラコスター短期大学に通学した苦労人でもある。

「アメリカでのロードはきつい。今日ロスならば明日はニューヨークてな具合さ。おいしいステーキどころかまずいハンバーガーをパクつくていたらくさ。だから日本から誘われたときには、チャンスだ! と思ったね」

 ヤンキースやブルージェイズを渡り歩き、すでに32歳。79年は3本塁打に終わり、代打専門としてメジャーで生き残るのも年々厳しくなっていた。そこで79年12月に来日、日本ハムの首脳陣の前で打撃テストを受けると豪快なサク越えを連発させて合格を勝ち取る。極度の飛行機嫌いで、愛妻の「日本に行ったら新幹線があるから飛行機に乗らなくてすむわよ」なんて励ましも背中を押した。年俸2300万円、身長183センチ、体重102キロ(公称95キロ)。ヒゲをたくわえ、上からB117、H106、W118センチの肉体はヘラクレスとも称されたが、開幕当初は日本野球に戸惑い打率1割台に低迷する。
 

4打数連続&4打席連続本塁打


日本球界に見事に適応して、本塁打を量産した


 それが80年4月20日南海戦(大阪)ダブルヘッダー第2試合で1死球を挟み4打数連続本塁打を記録。一躍、“サモアの怪人”と注目を集めるようになる。この日本タイ記録は、同僚の富田勝が捨てるつもりでロッカールームに置いていたバットを手にし「バランスがいいから」と譲ってもらい達成した。そのバットを折ると抱きしめて頬ずりをしながら「恋人を失ったようだ」と悲しみスランプに陥る繊細な一面も。7月4日のロッテ戦(川崎)では5三振を喫し、大沢啓二監督も「あれだけ当たらんもんかな。本当に見ているほうが疲れるわ」と呆れた。かと思えば、9月4日の近鉄戦(日生)から5日の西武戦(西武)にかけては、怒涛の4打席連続アーチをかっ飛ばす。しかし、日本新が懸かった5打席目はサウスポー永射保の前に涙目となり空振り三振。この年、天敵・永射には16打数ノーヒットと完璧に抑え込まれた。

 ホームランか、三振か―――。「今日100%の自分を出して真剣にやらなきゃ、オレに明日はない」と来日1年目にもかかわらず、マニエル(近鉄)に次ぐリーグ2位の45本塁打を記録。サモア政庁から「オフに故郷で少年野球教室を開いてほしい」という丁重な招待状も届いた。勝負強く、3ラン年間14本のNPB記録は“ミスター3ラン”と称される一方で、打率.239は規定到達36人中35位、121三振はリーグワースト。その個性的なキャラクターが人気を得て、当時のパ・リーグでは珍しく一般の雑誌にも度々取り上げられるほどだった。『現代』80年8月号では、日本生活を満喫するソレイタのコメントが掲載されている。

「日本人は、実に合理的な文化を持っているヨ。これなら日本の住宅事情でもOKさ。オレが日本に来て一番感心したのが、実はこのタタミとフトンというやつさ」

 妊娠中の妻にふたりの子どもと信濃町の3LDKマンション暮らし。二部屋をタタミの日本間に改築し、部屋がいっぱいになるセミダブルのフトンを二組特注した。「夜中にベッドだと“音”がするだろ。その点、フトンはノー・ノイズだからね」なんつって唐突に下ネタをぶっこむ『週刊ベースボール』80年6月2日号の「新怪人ソレイタ一家のニッポンよいとこレポート」では、「日本の米は、サモアのライスと同じ、甘くてとてもおいしいんだ」とホットコーヒーにライスをひたす“ソレイタ・スペシャル”を紹介。コーヒー・ライスで今日もご機嫌。お気に入りのパチンコは500円まで、キリンビールとタバコはセブンスターと決めている。まるでサラリーマンのお父さんのような私生活を送り、グラウンドでは特大アーチを連発した。

 普段は子供たちが通うアメリカンスクールの授業料の高さに頭を悩ませる倹約家と思いきや、ホームランの賞品は同僚やお世話になったコーチ、スコアラー、打撃投手らに惜しみなく譲ってしまう。雑誌のインタビューがあると、自分のギャラから通訳や広報担当にまで分けてあげようとする。相手が遠慮をしても、「ドウシテ、ドウシテ」とおスソ分けだ。歌舞伎にまで興味を示す、日本通の気のやさしい力持ち。当然、サモア育ち、メジャー経由の男にとって、練習時間の長さなど日本球界への疑問点も多々出てくる。それでも、郷に入れば郷に従えのマインドだ。

「ボクは日本で野球をやっているんだ。システムがおかしくても、合わせてやるのが仕事だろ」

二冠もMVPは獲得できず


日本ハム在籍4年の間に通算155本塁打を放った


 2年目の81年は開幕10試合で5本塁打のスタートダッシュ。「今年は外角ばかり攻められるから、試合前の練習でも外角を投げてもらって逆方向へのバッティングばかりしていたんだよ」と打撃に確実性が増し、44本塁打、108打点で二冠獲得。最多勝利打点にも輝き、打率.300をマーク。日本ハムの後期優勝の立役者に。プレーオフでもロッテを下し、巨人との後楽園決戦と呼ばれた日本シリーズでチームは2勝4敗と敗れたが、ソレイタは江川卓西本聖の両エースから、それぞれ逆方向へ先制アーチを放ち意地を見せた。

 2年間で89本塁打の圧倒的成績を残すも、日本でのキャリアは決して順風満帆だったわけではない。81年は二冠でシーズンMVP間違いなしと思われたが、投票結果は江夏豊柏原純一に大きく差をつけられた3位。87年に発売された『助っ人列伝』(文春文庫ビジュアル版)によると、大沢監督が記者たちに「ソレイタには投票しないでほしい」と頼み、傷ついた背番号39が抗議すると、ボスは「だってキミは(発表時にオフで)日本にいなかったじゃないか」と言ったという。

 さらに80年オールスターでは堂々の一塁手部門ファン投票1位当選も、当時のルールでは夢の球宴に出場できる外国人選手は同リーグ2名まで。ファン投票で3人以上選出されたら、投票数の上位2人となっており、ソレイタ(12万2819票)はマルカーノ(14万817票)、レロン・リー(19万1916票)より票数が少なかったため、無念の涙をのんだ。その規格外の打棒は、80年代初頭の球界において決して正当に評価されていたとは言い難い。82年にキャリア唯一の全試合出場でようやく初のベストナインに選出。83年はリーグ3位タイの36本塁打を放ち残留を訴えるも、その年限りで解雇。審判の判定に腹を立て、大阪のホテルの一室で暴れた夜もあったという。

 日本ハム4年間の在籍で、通算155本塁打を放った偉大なスラッガーが日本を去った7年後――90年2月、衝撃のニュースが報じられる。引退してから故郷に帰ったサモアの大砲は政府の教育局体育部で働いたが、土地取引のトラブルに巻き込まれ、路上で射殺されたのだ。まだ43歳の若さだった。

 なお、ソレイタの通算100号アーチ到達は303試合目。あの神様バースの304試合をも上回る、当時のNPB最速記録である。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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