イチローは投手としてオリックス4位
プロのスタートラインであるドラフトは、プロを目指す若者は最初のゴールなのかもしれない。ドラフト1位で指名されるのは光栄なことだろう。近年は育成ドラフトもあり、支配下と育成では大きな開きがある。下位で指名された選手は1位の選手ほどの期待度がない傾向は間違いなくあって、指名の順位によってプロになってからも少なからず“格差”があるという。とはいえ、指名1位が競合した選手が大成するとは限らないように、下位または育成で指名された選手が結果を残すことも少なくないのだ。
1968年の秋、いわゆる“黄金ドラフト”で阪急(現在のオリックス)9位に
福本豊がいたことは紹介したが、このとき阪急は15位まで選手を指名していて、低い順位とも言い切れないが、高い順位ではないことは確かだ。こうした“下克上”は福本が最初ではなく、ドラフト制度が始まって2年目、66年の秋は第1次、第2次と2回に分けての開催だったが、第1次でサン
ケイ(現在の
ヤクルト)8位と下位で指名された
武上四郎が1年目から新人王に。ヤクルトでは長く正捕手を務めた
大矢明彦は69年の7位。翌70年には
柏原純一が南海(現在の
ソフトバンク)8位から大成した。
のちの“ミスター・タイガース”
掛布雅之は73年の
阪神6位だ。同じ6位でも大洋(現在の
DeNA)の
屋鋪要は77年の最下位。ともに現在のソフトバンク、南海では83年の
佐々木誠、ダイエーでは90年の
村松有人も最下位の6位だった。最下位でも
西武で81年6位の
工藤公康はサプライズの面が強いが、このときは
ロッテ5位に
西村徳文がいる。阪急で83年の5位は
星野伸之、翌84年の最終6位は
福良淳一だったが、チームがオリックスとなり、91年の4位で投手として指名されたのが鈴木一朗、のちのイチローだった。このときは近鉄4位に
中村紀洋、ダイエーの最終10位にはヤクルト移籍で開花した
田畑一也がいる。93年のロッテ7位、このときのドラフトでも最後の最後だったのが
福浦和也。投手としての指名だったが、のちに打者として真価を発揮した。
上位に注目しがちではあるが、最後の最後まで目が離せないのもドラフトだ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM