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平成助っ人賛歌

年間60本塁打の金字塔! 王や落合を超える脅威の“本塁打率7.32”を記録したバレンティン/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

ラミレスのよい事例から学ぶ



「たった1人が外国人市場を大きく変えることもあるんです」

 2012年春に出版された『スワローズ流必勝戦略 効率的球団経営で勝つチームづくり』(ベースボール・マガジン社)の中で、編成部国際担当の奥村政之氏はそう球界の助っ人トレンドを分析している。中日トニ・ブランコが活躍すれば、ドミニカ選手なら年俸2700万円であのパワーが手に入るのかと中南米ブームに。ヤクルトが周囲の低評価を気にせずリリーバー林昌勇を獲得して成功すれば、他球団も韓国球界の動向に目が向く。ヤクルトと言えば高確率で優良外国人を連れてくるイメージが強いが、ベテランではなく若い20代後半の外国人選手を獲ることが多い理由を奥村氏はこう語る。

「30歳を超えた選手を取るときに故障歴を見ると、どうしても故障のない選手を取りたくなってくる。でも故障歴のない選手を取ると、ウチに入るころがそろそろ故障が出る年齢。ちょうど活躍して年俸が高くなったころにケガが出て成績が下がると、チームとしては困るわけです。そう考えると、アレックス・ラミレスは01年、27歳と若くして日本に来て成功し、長く活躍している。ラミレスのよい事例から学び、安い年俸で最初の1年を我慢してくれたら翌年必ず出てくるだろう、という選手を取りたい」

 その流れで2011年にヤクルトへやってきたのが、26歳のウラディミール・バレンティンである。オランダ領キュラソー島出身のスラッガーは、2000年にシアトル・マリナーズと契約。04年にはオランダ代表としてアテネ五輪も経験した。このとき、日本戦で3三振を喫し、黒田博樹の球のキレに驚いたという。07年にメジャーデビューすると、08年は71試合で7本塁打。レッズに移籍した09年には、そのシーズンのMLB最長飛距離となる約151メートルの特大アーチを放ったこともある。ベンチプレスなら最高130キロの重量で10回を上げるビッグパワーの外野手で、肩は強く、足も決して遅くない。しかし、メジャー・リーガーとして生き抜くには精神面がまだ未熟で三振も多く荒削り。結局、大リーグ通算15本塁打と定着できず、年俸6000万円に魅かれて来日を決断する。

 バレンティンが日本でキャリアを始めた11年シーズンは、東日本大震災の影響で開幕が約3週間遅れ、さらに低反発の統一球導入でロースコアゲームが続いた。規定投球回で防御率1点台の投手が前年の1名から6名に増え、3割打者は27名から9名に激減するなど記録的な“投高打低”のシーズンだったが、ヤクルトの背番号4は、セ・リーグでは唯一の30本台突破。1年目からいきなり31本塁打でホームラン王を獲得する。だが、一方でリーグワーストの打率.228に131三振と気分屋でプレーにムラがあり、5月月間MVPに輝いたかと思えば、夏場には1カ月ほどホームランが出ないスランプに襲われるなど首脳陣が手を焼く場面も見られた。球団側は、「ホームラン王にはなったけれども、12球団一の低打率は重く受け止めてください」とあえて年俸の大幅アップはしなかった。チーム側からリリースしない限り、国内の他球団移籍NGという契約を結び、根気強く育てればラミレスのように中軸打者として定着する可能性もあると踏んだのだ。以降、ヤクルトはバレンティンの性格を考え、上手くコントロールしていく。

集大成の3年目に大躍進


 愛称は“ココ”。自宅マンションでは、42インチのテレビで趣味のプレイステーション3を楽しみ気分転換。好きなソフトはNBAのバスケットボールに、シューティング系だ。来日当初は苦戦した日本食も、焼き肉、みそラーメン、担々麺と次第に好物が増えていく。なにより便利で快適なホームタウン、ナイター後の遅い時間でも入れる飲食店がたくさんある東京という大都市を気に入っていた。派手な大型補強がほとんどないヤクルトのファミリー球団的な雰囲気も慣れると居心地がいい。ときに打席から相手捕手にイタズラ半分にちょっかいを出したが、キャッチャーが巨人阿部慎之助の場合は真面目な顔してやめておく異国で生き抜く危機察知能力にも長けていた。

 見事に環境に適応したバレンティンは、12年も肉離れでの戦線離脱がありながら規定打席未満で31本塁打。2年連続のホームランキングに輝くが、それでも新年俸は8000万円だった。そして、キャリアのハイライトともいえる2013年を迎えることになる。田中将大が24連勝で楽天を日本一に導き、日本ハム大谷翔平が二刀流でプロデビューしたこのシーズン、バレンティンは球史に残る偉業を達成する。

13年にはオランダ代表でWBCに出場


 オランダ代表で出場した春のWBCにより負傷した、左内転筋肉離れが完治せず開幕二軍スタート。シーズン第1号は開幕から16試合目、4月16日の中日戦(神宮)だった。DeNAのブランコが絶好調だったこともあり、さすがにバレンティンの3年連続キングは厳しいかと思われたが、背番号4は4月29日のDeNA戦(横浜)で1試合3発。6月にはソフトバンク戦で3試合にまたがり、2四球をはさんだ4打数連続弾で20号に到達する。7月13日の広島戦で、神宮球場の夏空に打ち上げたのは来日初の31号満塁弾だ。前半戦を32本塁打で折り返すと、8月4日の広島戦ではまたも本拠地で来日通算100号となる38号アーチ。なお、326試合目の記録達成はヤクルトの先輩助っ人ペタジーニを7試合上回る球団最速記録だった。

 本能で対応した1年目、捕手の配球を考えるようになった2年目、その集大成として迎えた3年目の大躍進。真夏のバレンティンは凄まじいペースでホームランを打ち続け、8月はなんと月間18発のプロ野球記録を樹立。8月27日の中日戦でこの日2本目のアーチを神宮の左翼席に叩き込み、早くもシーズン50号到達。セ・リーグのペナントレースはすでに巨人が独走態勢に入っていたため、注目は個人タイトル争いへ。そこでバレンティンの王貞治タフィ・ローズアレックス・カブレラらが持つ年間55本塁打のNPB記録への挑戦が俄然注目を集める。

13年9月15日の阪神戦で王、ローズ、カブレラのシーズン記録を抜く56号本塁打を放った


 8月30日DeNA戦(神宮)の52号から、9月8日中日戦(ナゴヤドーム)の53号まで珍しく時間がかかったが、9月11日の広島戦(神宮)でタイ記録の55号。15日の阪神戦(神宮)で日本新記録の56号、アジア新記録の57号を連発した。贔屓チーム関係なく、球場全体から祝福の拍手が送られるピースフルな夏フェス的雰囲気に、昭和の殺伐とした現場を知る解説者の大矢明彦氏は「時代が変わったんだねぇ」と感心してみせた。左アキレス腱痛を抱え終盤はスタメン落ちもあったが、10月4日の阪神戦(神宮)でメッセンジャーから第60号を放ちフィニッシュ。14試合も欠場しながら130試合、打率.330、60本塁打、131打点、OPS.1.234(長打率.779)という凄まじい成績で3年連続ホームランキングやMVPに輝いた。

『2013プロ野球総決算号』(ベースボール・マガジン社)掲載の「データで見るバレンティン60本塁打」によると、神宮球場で放った38本はシーズン同一球場最多レコードで、1本打つのに何打席要したかを示す本塁打率は脅威の7.32を記録する(55本を放った64年の王は8.58、三冠王になった86年の落合博満は8.34)。この年のヤクルトは最下位に沈んだが、歴史的な偉業達成に故郷の島キュラソーも大盛り上がりで、11月18日(現地時間17日)にバレンティンが凱旋帰国すると、人口14万人をあげてのパレードで60本塁打を祝福。オランダ国王にも謁見した。

甘くなかった九州での新生活


 日本ではキリンビールのテレビCMにも出演するほど全国区となった、13年の60号狂騒曲。バレンティンは『ベースボールマガジン』2019年4月号の独占インタビューで、記録達成前に勝負を避けられなかった理由を聞かれ、意外にもマリナーズ時代の同僚の名前をあげている。

「それはイチローさんの影響が大きいと思っているんだ。イチローさんはメジャーで次々と記録を塗り替えていったけど、日本人だからといって勝負を避けたり、記録達成を邪魔するようなことはなかった。そういった姿を見ていたからこそ、日本のピッチャーも姑息な手段は使わなかったはず。だからそういった風潮にしてくれたイチローさんにも感謝したいね」

 当時、バレンティンはまだ29歳。もし本気でメジャー復帰を狙うならこのタイミングがベストだったが、年俸2億円でヤクルト残留を決断。以後、肉離れに泣かされた15年を除いて(皮肉にもこの年ヤクルトは14年ぶりのリーグVを達成)、毎年30本以上のホームランを打ち続ける。アメリカ滞在中に夫人への暴行と監禁騒動を起こしたり、度々“お爺ちゃんの散歩”と揶揄されたスローな動きの怠慢守備が物議を醸した(自軍ベンチで失点後のバーネットがブチギレたことも)。年間三度の退場処分を受け、契約条項に「退場もしくは出場停止で罰金を科す」と記されたことが話題になることもあったが、一方で自チームの若手選手にはときに熱心にアドバイスを送った。

「自分が若いころ、同じように先輩にいろいろなアドバイスをもらって、それが今に生きている。自分もそういう年になったので積極的にしていこうと思った」

ソフトバンクでは2年間で通算13本塁打に終わった


 すっかりヤクルトの主軸として定着すると、18年には131打点で自身初の打点王を獲得。年俸も4億円を超え、19年には国内FA権を取得し、翌年から外国人枠を外れることとなった。ヤクルト在籍9年間で288本塁打。東京を気に入り、生涯ヤクルトかと思われたが、35歳で迎えた10年目のシーズン、年俸5億円の2年契約でソフトバンクへ。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない。新天地のバレンティンは『週刊ベースボール』の直撃に、柳田悠岐デスパイネグラシアルと「できれば4人で200本塁打を目標にしたいね!」と宣言。しかし、結果は惨惨たるものだった。

 20年は打率.168、9本塁打と低迷し、来日11年目の崖っぷちで迎えた今季も二軍暮らしが続いた。ソフトバンク2年間でわずか13本塁打。21年6月13日の古巣ヤクルト戦(PayPayドーム)では、外国人選手として史上4人目の通算300号、15人目の通算1000安打を達成して意地を見せるも、この日放った2本目の301号がホークス一軍での最後の一発になってしまう。今季限りでの退団が決定的となっていた9月30日には、筑後での二軍戦に「四番・DH」でフル出場。8回に勝ち越しソロをかっ飛ばし、鷹のラストゲームを飾った。10月3日にすでに離日しており、現時点では引退ではなく、22年も日本での現役続行を希望している。東京から福岡へ。慣れ親しんだ温かい実家を飛び出てみたものの、九州での新生活は甘くはなかったようだ。

 よくこの手の不完全燃焼の退団をした大物助っ人は、一昔前なら週刊誌でチームに対する不満をぶちまけて去るのが定番だった。だが、令和のバレンティンの場合は自身のSNSで度々「幸福は金で買えない」とか、「時間を巻き戻せたら、もっとよい決断をするのに」なんて投稿して、ファンからは「自分から転職しといて、前の会社の方が良かった的に臭わされても……」と呆れられた。

 どうしても、この2年のマイナスイメージが強いが、あらためて振り返ると、その実績はやはり圧倒的だ。今後、NPBで300本以上のホームランを放ち、年間60発を記録する助っ人選手はあらわれるだろうか?

 ウラディミール・バレンティン、来季38歳。悩めるホームランキングは、前述のベーマガインタビューでこんな言葉を残している。

「ボクがしゃべる日本語の中で好きな言葉は「オナカスイタ」と「ツカレタ」だよ。練習中によく使うよ。日本の食べ物も好き嫌いはないし、まったく問題ない。はっきり言ってボクはもう、“日本人”だからね(笑)」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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