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パンチ佐藤の漢の背中!

野球教室、鉄道写真、ラベンダー…好きなことを生きがいにする“スーパーカートリオ”屋鋪要氏/パンチ佐藤の漢の背中!

 

野球以外のお仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、今回で50回目を迎えました。記念すべきゲストは、子どもたちへの野球指導の傍ら、鉄道カメラマンとしても活動中の屋鋪要さん。盗塁王3回の「スーパーカー」は、なぜSLに魅せられたのでしょうか?
※『ベースボールマガジン』2021年4月号より転載

走るのは無鉄砲だったけど道具は丁寧に使っていた


パンチ佐藤氏[左]、屋鋪要氏


 85年、横浜大洋ホエールズに近藤貞雄新監督が就任した。

「横浜には色がない」。そう言って、稀代のアイデアマン・近藤監督が打ち出したのは、足を使ったスピード感のある野球。一番・高木豊、二番・加藤博一、三番・屋鋪要と3人の俊足選手を上位に固定し、『スーパーカートリオ』として売り出した。

 前年まで六、七番を打っていた屋鋪さんにとっては、大抜擢。その“トリオ”は加藤博一さんが2008年に惜しまれてこの世を去った今もなお、プロ野球史に語り継がれている。

パンチ 近藤さんはまずお三方に、どんなふうにおっしゃったんですか。

屋鋪 とにかく走れ。アウトになってもいい、ノーサインでいいから走れ、と。俺はね、あまり走ることに興味がなかったんですよ。でも監督に「走れ」って言われたら、走らないかん。まあ、アウトになっても怒られないしね。で、その年が終わってみたら、3人で150近く盗塁してた。

パンチ そのうち3人の気持ちが一つになった、面白くなってきた時期はいつごろですか?

屋鋪 もうシーズンの序盤からだよ。「俺たちは塁に出たら走らなきゃいけないんだ」って使命感というか、走らないと逆に怒られるから、やりがいが出るよね。チーム内で3人、数を競うのは面白かった。

パンチ 3人、それぞれ特長が違ったわけですよね。

屋鋪 豊さんはバッティングが素晴らしい。選球眼も素晴らしい。でも、足はそんなに速くなかった。豊さんは思いっきりがよかったの。だから走る、アウトになる、また走る、今度はセーフになるって感じ。盗塁の成功率は低いけど出塁率がよかった。逆にいえば、出塁数が多いから盗塁の数が伸びたわけだね。

パンチ 二番の加藤さんは盗塁をフォローするのがうまかったそうですね。

屋鋪 二番だから、やっぱりちょっと数は減るよな。俺も俺で、前にランナーが詰まっていたら走れないこともあったけど……。

パンチ 三番ですから、初球でもある程度いい球が来たら、打たなきゃいけないんじゃ?

屋鋪 塁に出ても、スタートが無鉄砲だった。だいたい四番が外国人。初球からガンと打ってくるからね。走ってはファウルで戻ってきて、という感じだった。

大洋時代は「スーパーカートリオ」の一員として知られ、球界を代表する俊足選手だった


パンチ 屋鋪モデルのスパイクはどんなものだったんですか。

屋鋪 皆、チームで支給のスパイクを履いていたけど、俺は足型をとって別注していた。革でなく人工皮革の軽いもの、底も薄くしてもらってね。

パンチ 1シーズン何足くらい履き替えました?

屋鋪 俺ね、物を大切にするタイプだったから、例えば雨の日に履いたシューズは金具の間にこびりついた土をきっちり削って、形を整えて乾かしてた。だから年間3足ぐらいしか履かなかったかな。

パンチ それは珍しいですよ。

屋鋪 福本(福本豊=元阪急)さんなんかも年間何足も何十足も使ったって聞くよね。

パンチ 走る選手で3、4足ってありえないですよ。

屋鋪 すごく大事に使ったの。俺、トレーニングシューズも洗って翌年まで使うから、SSKの担当者に「屋鋪さんぐらい道具を大事にしてくれる人はいません」って褒められていたよ。

パンチ 屋鋪さんと初めてじっくりお話しさせてもらって、イメージが変わりました。

屋鋪 18年間現役をやって、グラブも3つぐらいしか使っていないもん。

パンチ 横浜スタジアムではどういうリードの取り方をしていたんですか? ここで決めているとかあったんですか?

屋鋪 アンツーカーと人工芝の切れ目があるじゃん。僕はその切れ目がちょうど真ん中ぐらい。リードとしては小さいね。例えば元阪神の赤星(憲広)君とか元ソフトバンクの本多(雄一)君とか、左足も全部出ていたでしょう。

パンチ 屋鋪さん、なぜそういうリードだったんですか? 何かこだわりが?

屋鋪 ちょっと不器用だった。どちらかというと関節も硬かったし、リードを大きく取ったら帰塁することに意識がいくじゃない。小さいほうが、気持ちが楽だった。

94年の日本一は今思い出してもウルウル


パンチ ジャイアンツには、どういった経緯で移籍なさったのですか?

屋鋪 実は僕、88年のオフに巨人のある投手とトレードの噂が新聞に出たんだけど、結局ダメになってね。俺、そもそも昔は巨人が大っ嫌いだったのよ。ただでさえ阪神ファンだったし。でも、巨人は強いでしょ。巨人に行ったら優勝できるから。

パンチ やっぱり優勝、味わいたいですよね。そこから何がどうなって、巨人入りに至ったんですか?

屋鋪 (93年オフに)横浜をクビになったのを長嶋(長嶋茂雄=当時監督)さんが知ったんだよね。で、2、3日後、ニッポン放送のアナウンサーだった深沢弘さんから電話があったの。「おう、屋鋪、チョーさんがお前欲しいって言ってるぞ。どうだ」って。断る理由なんかないじゃない。「お願いします」って言って、次の年から巨人に行ったの。

パンチ 横浜をクビになったときは、一瞬どんな気持ちだったんですか?

屋鋪 まあ恨みはあったよね。

パンチ じゃあ、それまでの2、3日間は恨みのマグマが渦巻いていて……。

屋鋪 もちろん、どこかで野球をやるぞって気持ちはあったよ。

パンチ それが念願の巨人だったって最高ですね。有名な話ではありますが、「巨人軍は紳士たれ」の巨人で、日本人選手としてヒゲを許された数少ない一人という……。

屋鋪 俺は郷に入れば郷に従うよ。でも長嶋さんが俺にこう言ったんだ。「見てみろ、今の巨人の選手。こいつらスカート履いて野球やってやがるよ」って。あの上品な長嶋さんが、そんな口調でね。そこで続けて、「なぁ屋鋪、お前はヒゲを剃るなよ」と。

パンチ うわー、初めて聞きました!!

屋鋪 闘争心がすごく前に出る人だからね。歯がゆかったんじゃない? みんなおとなしくなっちゃって。

巨人に移籍した94年、リーグ優勝からの日本一に貢献。写真は銀座パレードで、背番号00が屋鋪氏


パンチ 巨人での素敵な思い出って何ですか?

屋鋪 それは94年のリーグ優勝、日本一ですよ。俺はレギュラーじゃなく、ほぼ全部の勝ちゲームの守備固めと代走だったけど、プロ野球人生で初めてリーグ優勝、そして日本一になったから。

パンチ やっぱり一生の思い出ですか?

屋鋪 一生の思い出。こんな幸せなことがあるのかってぐらい(笑)。優勝パレードで、オープンカーに乗せてもらったんだよ。長嶋さんと落合(博満)さんが先頭だったかな。次に原(辰徳)さんと僕と岡崎(郁)と川相(昌弘)。沿道に何万人ものファンがいてね。俺のそばにおばあちゃんが来て、「ありがとう、ありがとう」って一生懸命言うの。田舎から出てきたらしいよ。俺、思わず涙が出てきちゃってさ。優勝ってこんなに素晴らしいものなのかって。今思い出してもウルウルくるんだけど。そのとき、隣にいた原さんが「屋鋪、お前、泣いてんのか」って言うんだ。他の連中は優勝慣れしているから、「俺がどれだけ優勝に憧れていたか分からんやろう」って言い返したかったけどね。本当、うれしかったなあ。

 95年、巨人で現役を終えた屋鋪さん。プロ野球解説者を希望していたものの、テレビ局、ラジオ局から声は掛からず、思い悩んだ。

「とりあえず、球場に通おう」

 試合日、足しげく球場を訪れ、取材した。その様子がメディア関係者の目に留まり、ネットメディアのコラムなど、徐々に仕事がついてきた。

 その後、巨人のコーチを2年ずつ2期。このときの経験で、「コーチには全く保障がないな」と感じた。少年野球の指導や鉄道カメラマンとしての仕事が安定し、充実してきたころ。屋鋪さんはプロ野球界との関わりを捨てる決意をする。

「この仕事をしたい」と思ったら、すぐアプローチ


パンチ 少年野球は野球という縁があるからともかく、鉄道写真など野球から離れたところは、どうやって仕事につなげていったのですか。

屋鋪 そこは、自分で何もしなければ何も来ないと思ってね。鉄道雑誌の編集長に「記事を書かせて」とダイレクトメールを送って、そこから5年間の連載が始まったり、本を2冊出したり。とにかく自分から、例えばラジオを聴いて何か思うところがあったら、すぐ番組宛にメールを送るの。すると、「ラジオに出てくれ」とか返事が返ってくる。同じラジオ番組に3回出させてもらったこともあるよ。だから、とりあえず自分でやりたいと思ったことは躊躇せず、アプローチするね。

パンチ それは勉強になりました。僕はじっとしているタイプなんです。

屋鋪 ただ、なんでもかんでもできるわけじゃないからね。「俺はこれができるぞ」と思ったら、自分から行ったほうがいい。

パンチ 勉強になりました。僕もそうします。

屋鋪 絶対そうしたほうがいいよ。

パンチ 子どもたちの指導はずっと続けていらっしゃるんですね。

屋鋪 もう22年。月曜日から金曜日まで最大5カ所でやってたよ。

パンチ 一つのチームじゃなくて?

屋鋪 要するに、野球塾。チーム単位ではなくて個人に教えているの。

パンチ どの年代の子どもたちですか?

屋鋪 うちの生徒は幼稚園から中3まで。

パンチ 幼稚園の子には、どういう指導をするんですか?

屋鋪 基本をちゃんと教えます。バッティングの基本、捕球の基本、投げる基本。

パンチ 小学生には?

屋鋪 レベルが一人ひとり違うから、この子にはこのポイントを今から教えて、そこをクリアしてもらう、という段階を設けているね。小学校上級生くらいになるとインコースからアウトコースの打ち方、下半身と上半身の使い方とか、細かく教える。僕の教えていることは、全然難しくないよ。

パンチ 22年も続けられていられるのは、なぜでしょう。

屋鋪 俺ね、普段は結構ちゃらんぽらんなんですよ。物忘れはするし、今日も集合時間間違えて50分も早く来ちゃった(笑)。でもこと野球に関してはね、この子には2カ月前どんなことを教えたか。それが積み重なって良くなればいいけど、もし誰かに変な指導をされて戻ってきたら、またやり直す。指導者はその子のこれからの野球の人生を大きく左右する。だからものすごく根気よくやらなきゃいけないと思う。子どもへの教え方と花の育て方は、いまだに勉強中よ。

パンチ 花!! 育てるんですか? うわあ、イメージがないなあ(笑)。

屋鋪 (笑)。あとはこの子が大人になったとき、どういう大人になってほしいかっていうことだね。

パンチ 野球を離れたところで?

屋鋪 今の子は、例えば俺が何か教えるでしょう。でも答えがない。分かったら分かった、分からなかったら分かりませんって言いなさい。まず目上の人に会ったら、自分から挨拶しなさい。おはようございます、よろしくお願いします。これはね、ごく常識的なことであって、社会に出たとき、大人になっていくとき絶対プラスになるから、と言いますね。

パンチ 屋鋪さん、子どもとか花とか、耕して種を蒔いて水をやって芽が出て、とじっくり見守るのが楽しいタイプなんですね。

屋鋪 好きだね。

パンチ だから、できるんだ。

屋鋪 パンチ、いいこと言うね。俺そんなふうにうまく表現できなかったけど、まさにその通りかも分からんな。

パンチ 何の花を育てているんですか?

屋鋪 今はラベンダーを60種類くらい。

パンチ どこで育てているんですか?

屋鋪 うちの近く。家の裏に庭を作ったりしてね。

パンチ どうして花、とりわけラベンダーにハマったんですか?

屋鋪 高校のころから花が好きだったんだよ。それでマンションの4階に住んでいたときに育てたんだけど、うまくいかなかった。でも引っ越して、周辺の環境が良くなったんで、まずアジサイを育てたの。で、ここ2、3年はラベンダーにハマってる。

パンチ 僕は家の1階から2階をアサガオのカーテンで覆いたいと思ってるんですよ。でも、毎年そうは思いながら、実現できていません。

屋鋪 ラベンダーは「四季咲き」って言って、品種によって咲く時期が変わるんだよ。だから、ラベンダーはおススメ。俺、あちこちにラベンダーを観賞できる場所を作りたくてね。近所の公園にラベンダーを植えてやろうと思って、管理事務所ところに掛け合ってOKをもらったんだよね。

パンチ そんなプロ野球OB、いませんよ。

屋鋪 いないね(笑)。

パンチ ラベンダーの魅力ってなんですか?

屋鋪 香り。すごくいい香りがするでしょ。精油にしたり石けんをつくったり。ドライフラワーにしてもいい。花もかわいいしね。

球教室で出張した前後に機関車撮影の旅へ


趣味が多彩な屋鋪氏


パンチ 子どもたちに野球を教えるとか花を育てる趣味があるから、若々しいんだな。子どもたちはお花と一緒なんですね。

屋鋪 本当育つのね。気候にもよるけど、やっぱり愛情はかけてやらないかんしね。愛情をかけて育てば育つほどうれしいしね、あと僕、絵も好きなんですよ。

パンチ 本当ですか。

屋鋪 蒸気機関車の絵とか、描きますよ。

パンチ ますますそんな元プロ野球選手、いないですよ(笑)。僕らの時代のプロ野球選手って酒、パチンコ、ゴルフが趣味という人ばかりだった。それで、肝心の蒸気機関車です。屋鋪さんはいつから機関車に魅せられたんですか?

屋鋪 小学5年生ぐらいかな。

パンチ 5年生のころ、汽車が地元を走っていたんですか?

屋鋪 いや、地元では走ってない。

パンチ でしょう? なんで?

屋鋪 友達に好きな子がいたのと、ウチの父親も写真集とか持っていてね。それを見て、「これいいな」と思って。俺が5年生というと1970年だから、ちょっと田舎に行けば走っていたんだよ。北海道や九州では、75年ぐらいまで残ってた。で、親父と一緒に北海道とか三重県とか、2回ほど撮影しに行ったのね。

パンチ 屋鋪さん、いわゆる“撮り鉄”なんですか?

屋鋪 そう。俺、野球をやっている間はこの趣味から離れていたんだけど、2005年にコーチを辞めてから、日本各地の保存機(保存されている機関車)を撮影しようと思ってね。週末になると野球教室で全国各地に行っていたから、行く先々で保存機を撮影することにしたの。

パンチ 屋鋪さんのそういう感覚は僕、尊敬しちゃいますね。毎回野球教室が終わったら、汽車を見に行こうって。

屋鋪 前日にね。だいたい夕方、ホテルに入るでしょ。俺は朝一番の飛行機で北海道に飛ぶの。それでレンタカーを借りて、何百キロも走って、何両か撮る。集合時間には間に合うように帰ってね。で、もしチャンスがあれば、もう1泊して野球教室が終わってから、また撮りに行くとかね。

パンチ 僕は今年57歳になるんですけど、ここ3、4年前ぐらいからやっと、講演会とか野球教室に行くとき、地元の方に美術館、博物館や名所旧跡、地元料理の店を聞いて、行ってみるようになったんです。

屋鋪 パンチ、それ絶対いいよ。

パンチ 僕は10年遅かったです。

屋鋪 でね、話が途中だったんだけど、国内で保存されている機関車が、全国に601車両あるんだよ。それを全部1人で撮ったのは、俺が初めてなんだよ。

パンチ すごい。

屋鋪 今はもう1人出てきたけどね。それは自慢。ちょっと特殊でしょ。鉄道写真の世界では、みんなまあまあ知ってくれてる。

パンチ 今日お話を聞かせていただいて、今年はアサガオを始めてみようと。

屋鋪 いいんじゃない。

パンチ 特に今コロナで、何か趣味を持つチャンスですよね。引退したら、こういう趣味の一つや二つ持ってないとね。

屋鋪 持たなきゃいけないってことはないけど、持ったほうが楽しいよ。

パンチ 今の生きがい、楽しみは何ですか?

屋鋪 まず子どもにちゃんと野球を教えること。一人ひとりに丁寧に教える。あと、俺、今鉄道模型の雑誌にも出てるの。鉄道模型もハンパないほど持っていてね。鉄道の趣味を楽しみながら、俺の今住んでいる町をラベンダーでいっぱいにしたい。

パンチ 地元の子どもたち、住民に明るいメッセージを、夢を配っているっていうことじゃないですか。すごいですよ。

屋鋪 いや、俺は自分の好きなことをやっているだけよ。

パンチ それが一番ですよ。

パンチの取材後記


 僕はよく、実際会って話をすると「イメージが違った」と言われます。屋鋪さんもそう。僕が思っていた屋鋪さんはちょっとぶっきらぼうで、センスで野球をやっている天才型。だけど実際の屋鋪さんは全く正反対な方でしたね。汽車やカメラに興味がある、とお聞きしていた時点で、「あれ?」とは思っていましたが、まさか花……。「地元をラベンダーでいっぱいにする」ことに力を傾けているなんて……。素敵なプロ野球OBであり、先輩です。

 僕もこれをきっかけに、今夏はアサガオを育ててみます。それから、実は最近、自分でもちょっと老けてきたかなと思っていました。今までは自分より年上の人とお酒を飲んで、いろいろ吸収するつもりでいたんですが、やっぱり若い人と接しないと年を取っちゃうのかな、これからは逆に年下の人とお酒を飲んで、彼らから吸収しなければいけないかなと思わされた、今回の屋鋪さんとの対談でした。

●屋鋪要(やしき・かなめ)
◎1959年6月11日生まれ、兵庫県出身。三田学園高からドラフト6位で78年大洋に入団。85年には打率.304、15本塁打、58盗塁をマークするなど俊足巧打のスイッチヒッターの外野手として活躍し、84年から5年連続ゴールデン・グラブ賞、86年から3年連続盗塁王。94年に巨人へ移籍し、95年限りで現役引退。通算成績は1628試合出場、1146安打(打率.269)、58本塁打、375打点、327盗塁。その後は巨人コーチを2度務め、現在は少年野球指導者、鉄道文化人。著書に『遥かなる鐵路』(日本写真企画)ほか。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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