絶対王者西武の牙城に迫るも届かず
1990年代を1年1冊で振り返る企画も、10月28日発売の「1993年編」でひとまずゴールを迎える。ご愛読に感謝したい。
1993年は、
ヤクルトが
野村克也監督の下、リーグ連覇、さらに常勝軍団
西武を破って日本一に輝いたシーズンで、
巨人に
長嶋茂雄監督が復帰し、新人・
松井秀喜の入団でも話題となった。
ここではパで西武の牙城を揺るがせ、2位となった日本ハムの戦いを特集した記事を抜粋し再録する。
親分とも言われた大沢啓二監督が60歳で9年ぶりに日本ハム監督復帰。前回の任期では1981年にリーグ優勝に導いている。
「西武が強過ぎてつまらない。まるで、鬼のようだな。いまの俺は鬼が島に鬼退治に出かける桃太郎の心境だよ」
前年の92年オフ、現場復帰が決まったときの言葉だ。西武は90年から3年連続優勝&日本一と黄金時代。対して日本ハムは前年5位。89年から4年連続Bクラスが続いていた。
チームは4月10日の開幕から2敗1分けスタートだったが、23日からの6連勝もあって4月末時点は首位に立った。
その後、やはり西武が浮上。5月4日、2位に落ち、以後、西武との差は5ゲーム前後で推移していたが、7月末から徐々に接近していく。
1.5ゲーム差まで詰めた8月9日だった。大沢監督が激高する。
「親分なんて、俺が頼んで呼んでもらってるわけじゃないし、俺はバントはしない、とは言っていない。無駄なバントが多いと言ってきただけだ。バントの重要性だって誰よりも知ってるよ。なんで、そんな言いがかりをつけるんだ。森(
森祇晶西武監督)にバカヤローって言っておけ」
バントはしないなんて言ってやけに最近してるじゃないか、親分なんて言われていい気になっているんじゃないかという西武首脳陣の言葉を聞いたからだ。
ただし、そのあと、「西武の選手もかわいそうだよな。管理、管理で窮屈そうだもんな。グラウンドで発散できないから、外ではめをはずしちゃうんだ。でもな、俺と森は昔からグッド・フレンドなんだ。日本シリーズで負けてないのにオーナーに、やりたければどうぞなんて言われて続けているもんな。俺ならとっくにやめてるよ」
当時、西武の選手が写真週刊誌にスクープされたりもあった。
8月20日、3.5ゲーム差で迎えた東京ドームでの直接対決3連戦が最初の天王山と言えるだろう。ここで日本ハムが怒とうの3連勝。0.5ゲーム差とする。さらに続く24日、日本ハムは近鉄に5対4と勝利し、西武が
オリックスにサヨナラ負けとなり、ついに首位だ。
翌25日、今度はナゴヤで近鉄に敗れ、2位に戻るも、そこから1分けを挟む3連勝。西武も負けず0.5差のままだったが、逆転に向け、大いに盛り上がった。
しかし31日、5位の
ロッテ戦(千葉マリン)で、ロッテの
伊良部秀輝に完投を許し、1対10の大敗。
「幕張の海岸で泳いでいたら浜から26メートル(残り26試合)のところで伊良部というクラゲに刺された。いてえ、いてえ」と大沢監督。
9月25日、2ゲーム差で迎えた最後の直接対決が東京ドームでの2連戦。試合前、「皇国の興廃。この一戦にあり、各員一層努力せよ」と時代がかったセリフで選手に活を入れたが、初戦は延長10回の末、0対0の引き分け、26日の試合に2対3で敗れてしまう。
以後、西武の足踏みもあったが、そのまま2位で閉幕。71勝52敗7分けだった。
「今年は西武でいいよ。でも、難産の優勝だったな。もう4キロくらいの赤ん坊になったんじゃねえか。髪の毛もはえそろっただろう」
豪快な敗者の弁だ。
大沢監督は、こうも言っている。
「監督ってもんは目立っちゃいけないんだ。勝てば選手に話を聞いてやってくれ。負ければ監督が悪いんだ。郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのもみんな監督のせいなんだ。ましてや、俺は役者じゃねえ。ざっくばらんに話しちゃうのがマスコミに受けているだけ。テレビに出ちゃいけない顏なんだからな」