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昭和助っ人賛歌

なぜ“MLBの本塁打王”オグリビーは近鉄のユニフォームを着たのか?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

開幕直前の大騒動



 ある日、その男は、こつ然と姿を消した。

 1987(昭和62)年、3月30日に事件は起きた。“近鉄バファローズVの使者”として迎えた超大物新助っ人が、チーム練習に姿を見せなかったのだ。午後2時開始と確かに連絡はしたはずだが、慣れない電車を乗り間違えたのか……。慌てた担当通訳が大阪・阿倍野のマンションに電話を入れるがつながらない。留守番をしているはずの夫人までどうしたのだろうか? ふとイヤな予感がしたという。主役の不在に気付いた報道陣には「疲れがたまっているので休みます」とその場をとりつくろい、すぐさま居場所探しに奔走するも、不気味なほどに手がかりがつかめない。まさか、まさかな……と思いながらも念のため航空会社の搭乗者リストも調べた。そして、その“まさか”が現実となる。

「ベンジャミン・オグリビー、タマラ・オグリビー」

 3月30日午後3時30分、大阪国際空港発、JAL52便の搭乗者リストに探していた二人の名前があったのである。皮肉にも同日、米国アリゾナ州フェニックスで行われていた友好球団・ブリュワーズのスプリングキャンプ視察から戻った、前田泰男球団代表は空の上でオグリビー夫妻とすれ違ったわけだ。大阪国際空港で待ち受ける球団関係者から、衝撃の事実を聞かされ前田代表は呆然とする。翌31日午前3時頃、ロスから国際電話でブリュワーズの関係者を通じて、オグリビーの帰国理由は「家庭のアクシデントであり、プライバシーの問題で今後とも公表できない」と伝えられる。間が悪いことに、その日は都ホテル大阪20階のクリスタルルームで、佐伯勇オーナー主催の激励夕食会が行われることになっていた。焦った近鉄サイドは、すぐさま梶本豊治球団取締役をアメリカのオグリビー自宅へ派遣する。

 その様子を『週刊ベースボール』87年4月20日号は、「開幕直前の大騒動 突然消えてしまったオグリビーの怪」特集で報じているが、実はオグリビー獲得には近鉄グループの意地とメンツがかかっていた。80年に41本塁打でア・リーグ本塁打王を獲得したMLB通算235発の大物大リーガーには、2年前の85年オフ、西武ライオンズが推定70万ドル(約1億4000万円)の好条件で獲得を試みるも、本人の強い大リーグ志向の前に断念している(代わりに入団したのがジョージ・ブコビッチ)。長い手足を生かしたプレースタイルで“スパイダーマン”と称されたパナマの英雄は、全盛期よりもさすがに長打力は衰えたとはいえ、まだブリュワーズでクリーンアップを打っていた。しかし、86年は10年連続2ケタ本塁打が途切れる5本塁打に終わり、チームは若返りを図る。そのタイミングで近鉄がブリュワーズにオグリビーの譲渡を申し入れたのである。

「あんたを男として見込んで頼む!」


 西武鉄道は近鉄本社にとってライバル企業である。関連会社170社、総資産6903億円、日本最大の私鉄「近畿日本鉄道」だが、野球に関しては80年代から豊富な資金力をバックに西武ライオンズが瞬く間に強豪チームとなり、ゴールデンルーキー清原和博の入団で人気面もパ・リーグでは頭ひとつ抜けていた。だったら、その西武さんが逃した大物をウチがとったるんやと猛アタック。オグリビーは87年1月9日午前零時をもってフリーエージェントとなり、その10時間後にロス空港に到着した梶本取締役はひたすら近鉄入りを説得する。「ゼニカネじゃない。オレはいくらカネを積まれても日本に行く気はない!」と相変わらずメジャーにこだわる本人を粘り強く口説いたのだ。

 当時、世界を席巻したジャパンマネーも無力ならば、もう人情に訴えるしかない。日本で唯一、まだ“一度も日本一になっていないチーム”を勝たせられるのはあんたしかいない。38年間も球団を持つ佐伯オーナーの悲願をなんとかかなえてやってくれんか、「あんたを男として見込んで頼む!」なんて泣き落とし。メジャーの元本塁打王に対して、通訳も困るむちゃくちゃな交渉の仕方にも思えるが、なんとこの太平洋を越えた熱意に誇り高きホームラン王の心がグラつく。

「オレは本当は大リーグでまだやりたい……。しかし、大リーグならあと1年で確実にお払い箱かもしれん。それなら日本でもっと長くやりたい」

 87年1月16日深夜、その時歴史が動いた。米アリゾナ州テンピの北部住宅地にあるオグリビー邸で近鉄との契約が完了したのだ。推定年俸1億円、出来高ボーナス込みで1億6000万円と報じられたビッグディール。近鉄球団にとって、初の1億円プレーヤー誕生の瞬間だった。なお、週べ87年2月16日号では「米大リーグのホームラン王オグリビーは近鉄任侠路線にコロリと参った」と緊急リポートが掲載されるなど、日本の野球ファンの注目度も高かった。背番号10のユニフォームを身にまとい、耳当てなしのヘルメットをかぶり、打席ではバットをせわしなく回して揺らしながらタイミングをとる独特の打撃フォームも話題に。練習を視察に来た評論家の川上哲治が「王プラス張本」なんて絶賛した。日本はキャンプ期間中に休みがあることを知り、オグリビーはこうトレーニングコーチにかみついた。

「どうして、キャンプ中に休みがあるんだ。オレはまだトレーニングをしたいのに、本当に休んでいいのか、本当に球場に来なくていいのか、その理由を教えてくれ」

 38歳にしてほとばしる野球への情熱。さすが本物の大リーガーは違う、3年前にあっさり帰ってしまったドン・マネーの二の舞は避けられそうだ……と思った矢先、冒頭のバックレ帰国事件が起きたわけだ。近鉄側の必死の説得から1週間後、開幕2日目の4月11日に再来日して、藤井寺球場で20分間の打撃練習を披露。本人のモチベーション低下、夫人のホームシックから、子どもたちの通う学校が遠すぎる説までさまざまな憶測を呼び、記者会見を開くも、「野球の話だけだ。家庭の話を聞いたら席を立つぞ」と帰国の真相は最後まで明かされなかった。

グラウンドでは常に全力プレー


打席ではメジャー・リーガーの本領を発揮した


 それでも12日に選手登録、14日の日本ハム戦には「四番・左翼」で先発デビューを果たした。先行きが不安視されたが、いざグラウンドに立つと、これまでの大物助っ人のように日本の野球を見下した態度は一切見せず、オグリビーは勝つために常に全力でプレーしてみせた。移動はスーツ姿にジュラルミンケースでビシッとキメて、新幹線ではソローの哲学書を読む。家庭では厳格な父親で、チームの札幌遠征の帰り、千歳空港の土産コーナーで同僚たちが家で待つ子どもたちへのお土産を買い求める中、オグリビーは「私は絶対に買わない」とひと言。「子どもが、父親よりも土産を待つようになってしまう」からだという。

 甘やかすだけが教育じゃない。そんな生き方は子どもたちだけでなく、若い猛牛ナインにも好影響をもたらす。オグリビーがボールに書いた格言、「Kill or be killed」(殺るか、殺られるか)を見た若手投手の吉井理人は、打者に向かっていく自身の投球スタイルにぴったりと座右の銘にして、「こんないい結果が出ているのはベンジー(オグリビー)のおかげです」と感謝。ちなみに、のちに椎名林檎が名曲『丸ノ内サディスティック』の中で歌った「ベンジー」とはオグリビーではなく、元ブランキー・ジェット・シティの浅井健一のことである。

 とにかく野球に対して真摯に向き合い、真面目でミスをすると責任を感じて落ち込んだが、当時の同僚・金村義明の著書『80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話』(TOKYO NEWS BOOKS)によると、そんなベンジーを励まそうとイタズラで風呂の湯船に投げ入れると、超メジャー級の裸のバットをブラつかせながら喜んでお湯をかけあいハシャイでみせた。来日1年目の87年は、相棒のデービスが故障に泣く中、打率.300、24本塁打、74打点と及第点の成績。ベテランの新井宏昌が打率.366で首位打者、大石大二郎が盗塁王を獲得。ルーキー左腕の阿波野秀幸は15勝を挙げ新人王に輝くも、チームは最下位に沈んだ。

ブライアントからもリスペクト


2年連続で打率3割、20本塁打をクリアした


 しかし、その屈辱に誇り高き背番号10は近鉄残留を決断。タレントがそろうチームは翌88年に躍進する。6月にデービスが大麻事件で退団するも、代役で中日からトレード移籍してきたブライアントが74試合で34本塁打と大爆発。9月月間MVPのオグリビーは4試合連発弾でチームを8連勝に導き、ともにいてまえ打線を牽引した。ちなみにブライアントは大先輩を「サー」と呼びリスペクト。そんなひと回り年下の若者をベンジーもかわいがり、試合が雨天中止の夜には六本木のステーキ店へ出かけふたりで乾杯したという。

 そして、8年ぶりの優勝が懸かるロッテとの10月19日のダブルヘッダー“10.19”に、オグリビーは「四番・指名打者」として先発出場。なお、ロッテの「五番・指名打者」はメジャー通算2008安打のビル・マドロックで、プロ野球史に残る一戦で大リーグの元本塁打王と元首位打者が共演していたことになる。連勝すれば首位西武を勝率で上回る近鉄は第1試合に勝利するも、第2試合は無念の時間切れ引き分け。あれだけ日本行きを迷っていた男は、ホテルに戻り残念会の途中に、トイレに隠れてひとり悔し涙を流した。

 2年連続打率3割、本塁打20本をクリア。39歳の年齢や高年俸がネックとなり2シーズンの在籍でチームを去ったが、翌89年に近鉄は西武のV5を阻止して、9年ぶりのリーグ優勝を勝ち取る。その場にはいなかったが、数年前に近鉄グループをあげて獲得したオグリビーが、チームに植え付けた勝利への執念は若い選手たちへ引き継がれ、ついに“打倒・西武”を叶えたのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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