3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。バックナンバーを抜粋し、紹介する連載を時々掲載しています。 弱点は日本のかもい?
今回は『1973年7月16日号』。定価は100円。
ヤクルト入りした
ペピトーンが6月23日の巨人戦(後楽園)で四番・一塁として初出場。第3打席目に決勝タイムリーを放った。
「日本で初めてのプレーだったからドキドキしたけど、これでホッとしたよ」
とおどけた表情で言ったペピトーン。球場は大入り満員。負けはしたが巨人の営業部は「ペピトーンのおかげ」とニコニコだった。
長い黒髪とヒゲがトレードマークだったが、この髪はかつら。かつらを取った姿は誰にも見せず、シャワーの際もつけたままだった。
メジャー時代のペピトーンは「もっとも理解しにくいカラフルプレーヤー」と呼ばれていた。マリスの後継者とも言われた
ヤンキース時代、一塁手として活躍し、66年には31本塁打も放っているが、とにかくトラブルが多く、メジャー関係者は今回のヤクルト入りに関し、「もしペピーが日本の球団で打ちまくり、活躍したとしたらその監督の手腕は世界一だ」と言っていた。
ニューヨーク生まれのイタリア系で、ほんとかウソか知らないが、生い立ちをこう語る。
「俺はブルックリンの貧民街で生まれ育った。趣味は歌と釣りだが、ピアノはひけない。ガキのころは貧しくてピアノを習うには金持ちの家から盗んでこなければ不可能だったし、釣りと言ったってまともな釣りじゃない。マンホールに糸を垂らしてドブネズミを釣るのが俺の釣りさ」
ヤンキースでは球団のつけで遊びまくり、10万ドル近い請求書が球団に届いたこともあって、70年アストロズに放出。
アストロズでも同様の生活が続き、ある日のダブルヘッダーでは酔っぱらって第1試合直前に現れ、テーブルの上で熟睡。それでも第2試合では決勝ホームランを打った。
しかし結局、オールスター期間中の練習をボイコットし、クビ。今度はカブスに移った。
カブスでもそれなりに打ったのだが、ドローチャー監督とたびたび衝突し、72年途中ブレーブスに移籍していた。
これらを知ってかヤクルトは腫物をさわるように扱っていて、練習時のベンチには婚約者のディーケン嬢を入れ、終わればすぐさま帰っていった。
6月30日、ペピトーンデー(内野席の一部を子ども女性に無料開放)と銘打ったダブルヘッダーでは第2試合を欠場し、さらに翌日は完全休養。理由がすごい。
「マンションの入り口が日本人サイズで低いから出入りするたびに頭をぶつけた。それが原因で目がかすみ、頭が痛い」
これに対し、
三原脩監督が、
「1日も早く日本のかもいの高さに慣れてもらうしかない」
と言ったとあるが、本当?
なおペピトーン加入でお払い箱となったロバーツは、6月25日に退団手続き。まだ行く先は決まっていないが、何とか日本でプレーをと希望していた。球団では7月4日の大洋戦(神宮)をロバーツデーとして別れを惜しむこととなっていた。
では、また。
<次回に続く>
写真=BBM