週刊ベースボールONLINE

平成助っ人賛歌

4球団を渡り歩いた通算438登板のシコースキーは、なぜ右腕を回し続けたのか?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

どんな起用法にも文句を言わず



 大阪ドームで緊急アンケートを実施! ファンの声を聞け!

 これは『週刊ベースボール』2004年7月19日号掲載の「大阪近鉄・オリックス合併問題を考える」特集記事の見出しである。7月2日の近鉄対オリックス戦(大阪ドーム)に訪れたファン100人に直接アンケートを実施。合併後もファンを続けるかという問いに対して「YES38%、分からない25%、NO21%、本拠地が残ればYES13%、無回答2%、阪神ファン1%」という回答が寄せられた。オリックス・バファローズが悲願のリーグ優勝を飾った2021年に読むと感慨深い特集だが、この号にインタビューが掲載されている外国人選手が、巨人時代のブライアン・パトリック・シコースキーである。

 助っ人史上屈指とも称される鉄腕投手の日本でのキャリアは、01年途中、千葉ロッテで始まった。メジャー通算10試合でわずか1勝の右腕は夏の緊急補強で来日すると、のちのリリーフ職人の姿からは意外だが、当初は先発投手として起用されていた。7月11日の福岡ダイエー戦で初登板初先発デビュー。しかし、1年目は1勝4敗、防御率6.43と結果を残せず、12試合で3つのボークをとられるなど日本野球への適応に苦しんだ。それでも、ロッテは背番号49の27歳という若さと150キロ超えの直球に可能性を感じて2年目のチャンスを与える。

 松井秀喜松坂大輔が表紙を飾る週べ「2002年プロ野球全選手名鑑」のシコースキー寸評を確認すると、「残留したのは、“面白い素材”との評価が高いから」との一文がある。ちなみに「今季はブレークの予感」と書かれるのは2年目サブマリン渡辺俊介で、「今季こそ一軍定着」なんて檄を飛ばされるのは4年目捕手の里崎智也だ。四番のボーリックが年俸2億円、エースを張るミンチーが1億7000万円という自チームの高給助っ人陣とは対照的に、シコースキーの年俸は4000万円。いわば覚醒したら儲けものの期待枠での残留だったが、その男はどんな起用法にも文句を言わず、馬車馬のように投げまくった。

 5月途中まで先発ローテで回った02年は、途中から中継ぎに転向して47試合(96.2回)で防御率3.44。03年も春先は先発起用されるも、やはり中継ぎとして重宝され、2年続けて47試合(82.2回)登板。クローザーの小林雅英につなぐセットアッパーを任される。速球とチェンジアップ中心の組み立てで球種は多くなかったが、肩ができるのが異様に早いリリーバー向けのストロングポイントを持っていた。名前がコールされるとマウンドへ全力疾走、ラインを踏まないように飛び越え、マウンドを足でしっかり慣らし、投げる前には右腕を前に後ろにグルグルと人間風車のように回す。その理由について、シコースキーは前述の週べ独占インタビューでこう明かしている。

「マウンドに行くとき、戻るときに全速力で走るのは、ミシガンのハイスクール時代に始めたことです。監督から「グラウンドでは常に全力疾走!」と指導されたんですよ。腕を回すのも、ハイスクール時代からです。当時、ショートを守っていて、守備の途中から投手に回ることが多かったんですよ。ストレッチもできないんで、その分、腕を回して温めたんです。以来、これはもうクセのようなものですね」

球場名物として広く浸透


 あまりに腕を回しすぎるため、アメリカでは肩を痛めていると勘違いされることもあったが、日本ではそれが分かりやすいパフォーマンスとして一躍人気に。少年野球時代、生まれて初めてのホームランをかっ飛ばした直後に三塁へ向かって猛ダッシュしたという前しか見えない目玉をつけて、目の前の仕事に全力投球するシコースキー。そんなグラウンドでの熱さとは裏腹に普段は物静かな紳士で、趣味は子どもたちと遊ぶこと。来日の際、食べ物の好き嫌いが多く心配していたが、日本はどこにでもマクドナルドがあるし、近所にアメリカの食材を扱いスーパーもあってひと安心。新人通訳の靴が傷んでいるのを見かねて、新しい靴をプレゼントする気遣いができるナイスガイでもあった。

巨人では05年にキャリアハイの70試合に登板


 2年半過ごしたロッテをバレンタイン監督の就任にともない解雇され、04年から巨人へ移籍。オープン戦8試合で防御率10.13と打ちこまれるが、シーズンでは62試合、5勝3敗5セーブ、防御率2.67。翌05年はキャリア最多の70試合登板で、シコースキーは暗黒期と呼ばれた堀内政権の2年間で計132試合と投げまくり、瀕死のブルペンを支えた。

 06年に中継ぎでメジャー復帰するも、07年途中には東京ヤクルトからのオファーで日本帰還。08年から再びロッテ、10年には埼玉西武と流浪のジャーニーマンは逞しくサバイバルしていく。どこの球団でも使い勝手のいいリリーバーとして、セットアッパーやクローザーを務め一定の成績を残し、西武では33セーブで最多セーブにも輝いた。渡辺久信監督も「チェンジアップ、スライダー、どの球種でもカウントが取れる。そして、何と言っても直球。いいときの彼の150キロ近いストレートは、分かっていてもなかなか打てない」と信頼を寄せた。

西武では10年に最多セーブのタイトルを獲得した


 もちろん代名詞の登板前の腕回しは球場名物として広く浸透。09年のオールスター初選出の際には、「ファンも期待していると思うので、いつも以上に速く腕を回すつもり」なんつって球より腕の速さにこだわるなんだかよく分からない抱負を語り、西武では「ぐるぐるシコースキー」という回転させるとブーンブーンと音がなるグッズが500円で販売された。いつからか、マウンド上で腕を回すと、待ってましたと言わんばかりにスタンド全体からどよめきと拍手が沸き起こる様式美。まさに90年代の新日本プロレスでドーム興行を盛り上げた馳浩のジャイアントスイングに続く、21世紀の大回転革命である。

“腕回し”は息子が


 球界ではこの頃から、シコースキーやホセ・フェルナンデスのように長年にわたりNPB各球団を渡り歩く、日本を熟知した手堅く計算のできる“長寿”外国人選手も増えた。だが、助っ人史上屈指の鉄腕も年齢には勝てなかった。FA権を取得し、外国人枠から外れた11年に勤続疲労ともいえる右ヒジ手術でリタイア。退団後、12年はカナダでプレーしたが、なんとその秋に38歳にして西武の入団テストを受けて合格する。だが、雨の日も風の日も投げまくってきた身体はすでに限界を迎えており、右ヒジの次はヒザを故障してしまう。結局、13年の「最後の1年」は一軍登板なくユニフォームを脱いだ。

 通算438登板は、郭源治に次ぐ外国人選手歴代2位。1年目に先発でクビになりかけた27歳のヤングルーザーは、リリーフ稼業に活路を見いだし、30代後半まで計11シーズンも日本で生き抜いてみせた。連投、回またぎなんでも来いの心身ともに恐ろしくタフな投手だった。なお、シコースキーは2020年にパ・リーグTVの動画インタビューを受け、例の“腕回し”について嬉しそうにこんな言葉を残している。

「20歳の私の息子が大学で野球をやっているのですが、彼もキャッチボールをする前に私と同じ動き(腕回し)をして、ピッチングに向かうのです。いつも彼に言うんですよ。「君は間違っている」と。だって後ろ回しを先にやって、そのあと前回しにしているからね(笑)」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング