3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。バックナンバーを抜粋し、紹介する連載を時々掲載しています。 日拓は土橋監督、張本ヘッドでリスタート
今回は『1973年7月30日特大号』。定価は120円。
1973年7月11日、
ロッテが神宮球場に5万3000人の観客を集めた試合がある(当然主催者発表)。前期最終盤の日拓戦だ。
パ・リーグ前期首位の1位の南海は8日にすでに全日程を終了。ロッテは負けたらV逸、全勝なら優勝で、7月10日からラスト3ゲーム、日拓との3連戦を残していた。
10日の試合、南海・野村克也監督は自宅で待機し、日拓が3点リードしたところで大阪球場に向かう準備をしたが、そこからロッテが反撃し、サヨナラ勝ちを飾った。
「家で待って勝負が決まってから球場に行こうなんていうのは消極策や。これでは勝てん」
と野村監督。次の11日は試合前から大阪球場へ。
ただ、試合は超乱打戦。4回を終えて8対7で日拓リード。特に日拓の三番手・
金田留広が打たれまくった。
野村監督は、「日拓はロッテに勝てん。特に留が投げるときは10点取るまで安心できん」と毒づいた。
それでも日拓がなんとか逃げ切り、9対8の勝利。
大阪球場の事務所で報道陣に囲まれ、ラジオに耳を澄ませていた野村監督は、その瞬間、「バンザイ」と大きな声をあげて立ち上がった。
負けた日拓は
田宮謙次郎監督が解任。13日には
土橋正幸監督、
張本勲選手兼ヘッドコーチ兼打撃コーチ就任を発表。またビジター用の3色のユニフォームも発表された(この時点では七色とは書いていない)。
張本は言う。
「お家の一大事と思って引き受けた土橋監督のちょうちん持ちとして前を明るく照らしていきたい。一人三役といってもやる自信がある。若い者を引っ張ってぶさいくな野球は絶対やらせません」後期に向け16日には長野県営球場でサ
マーキャンプ。売りは午前6時半からの早朝練習。
「ゴルフだと5時に起きれるものが、自分の仕事で早起きできないはずがない。頭の冴えているときに練習することは身につくし、暑さしのぎにもなる」という張本ヘッドの考えだった。
では、また。
<次回に続く>
写真=BBM