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昭和助っ人賛歌

常勝西武の礎を築いた“子どものヒーロー”テリーが持つ豊富なエピソードとは?/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

「V1へミラクル・レオの切り札登場」


西武・テリー


 初の「日本シリーズオフィシャルプログラム」特別販売。

 1981(昭和56)年の『週刊ベースボール』にそんな告知が掲載されている。32回目を迎える日本シリーズ前に日本プロ野球機構から、初めての「オフィシャル・プログラム」が発行されることになり、週べ編集部もこれに全面協力をすることとなった。なお2020年日本シリーズのプログラムは1000円で販売されたが、当時の定価は500円である。

 この年、プロ野球界ではひとりの大物助っ人選手が話題を集めていた。創設3年目の新興球団・西武ライオンズが獲得したテリー・ウィットフィールドだ。前年はサンフランシスコ・ジャイアンツのクリーンアップを打ち、118試合で打率.296、4本塁打、26打点。メジャー7年間で通算打率.288 、26本塁打の中距離ヒッターは81年3月4日に西武への電撃入団が正式決定。堤義明オーナーの大号令により、初優勝への切り札を獲得した。看板選手・田淵幸一の推定年俸3800万円を大きく上回る異例の年俸6000万円に加え、出来高や諸経費を含めると総額1億円超え。前年途中に加入した、こちらも現役大リーガー・スティーブの年俸5300万円がかすむほどの大型契約だった。まだ28歳のテリーの来日を「なぜジャイアンツはこの選手を手放してしまったのか?」と日本のマスコミは驚きをもって伝えた。

「V1へミラクル・レオの切り札登場」「日本球団が獲得しうる限界を超えた選手」と盛り上がり、一般週刊誌でも巻頭で取り上げられるほどだった。トヨタの新車ソアラ誕生の広告が掲載される『週刊サンケイ』81年4月2日号では、「投手をにらむ目が並みではない西武が取った現役大リーガー・テリー」をグラビアで紹介。酒、タバコはやらず、もっぱらジュース専門のマジメさや、婚約者のステファニーさんと新幹線を体験したくて、飛行機のナインとは別に東京駅へ向かい「エキサイティング」と喜ぶ様子を報じている。なお野球の先生は母親で、右利きだったテリーを左打ちにさせ、リトルリーグの球場にもよく来て打撃から守備まで細かく注文をつけるグラウンドママだった。

子どもたちから愛されたプレーヤーだった


『週刊文春』81年6月25日号でも「子供たちの大歓声のなか夢のアーチをかける」テリー特集。糸を引くようなラインドライブの打球は芸術的と称され、36インチの特注“物干し竿バット”を一閃すると、西武球場一塁側内野スタンドの「テリーズ・ボックス」に座る少年たちは必死に声援を送った。1回千ドルの招待費用がかかったが、自身は米カリフォルニア州ブライスの貧しい家庭で育ったため、子どものころに野球のチケットがどうしても買えなかったという。

「小さいころ、ボクも大リーグが見たかった。だけど見られなかったんだよ。あのツラさを、他の少年に味わってもらいたくない」

 秋田の試合で少年ファン三人組の「テリー、テリー!」の大合唱に背中を押されホームランを放つと、翌年からその少年の兄弟も一緒に西武球場まで招待している。母国の息子や甥には定期的にプラモデルを作って贈った。心優しきちびっ子たちのヒーロー。ちなみに、漫画『キン肉マン』で子犬を助けるために新幹線を止めて超人オリンピック予選失格となったテリーマンのモデルは、西武のテリーではなく、プロレスラーのテリー・ファンクである。

日本球界にもたらした新しい価値観


 背番号45のグラウンド内外での姿勢は西武だけでなく、日本球界に新しい価値観をもたらした。81年9月4日のロッテ戦では開始直前に雨天中止が決まると、テリーがビニー ルシートの引かれた西武球場のグラウンドに登場。同僚の土井正博の背番号3ユニフォームを借り、プロテクターを腹に詰めてベーブ・ルースのモノマネを披露する。予告ホームランからバットをフルスイングすると、ダイヤモンドを一周して、最後は水しぶきをあげながらホームに頭からダイビング。前年に広島デュプリーがチームメートと賞金をかけて雨の中のパフォーマンスを披露したことがあったが、テリーの場合は「このまま帰ったらファンはつまらないだろう」というサービス精神からの行動だった。ある時には、ホームランを放ちホームに戻ってくると、ネット裏からの拍手に対してヘルメットを取り頭を下げる“お辞儀ポーズ”で応えてみせる。あの大物が客を喜ばせるためにここまでやる。まだ旧態依然としていた球界ファンサービスの概念に一石を投じた。

 実力も本物で1年目の開幕直後こそ日本の投手の攻めに戸惑うも、5月半ばから上昇すると外野全ポジションを守りながら、打率.316、22本塁打、100打点の好成績でベストナインを受賞。この年の西武は前期2位、後期4位だったが、テリーは9月26日の南海戦で一塁へ頭から滑り込み、左手親指を骨折してしまう。来日1年目はこのケガで終わるが、「一塁へのヘッドスライディングがナンセンスであることくらいボクは知っている。でも、ズルズルと負けしまうのが嫌だったんだ。試合の流れを変えたいと思って」と優勝戦線からすでに脱落した試合において、0対3とリードされた場面でのチームを鼓舞するハッスルプレーは、逆に背番号45の評価を上げることとなった。

 しかし、その全力プレーがアダとなり、2年目の82年には右ヒザを故障。根本陸夫に代わり監督に就任した、広岡達朗の管理野球にもストレスを感じた。しかも、週ベ82年6月21日号には「老舗西の3球団の意地 西武大包囲網作戦」という記事が確認できるように、新興チームに簡単に優勝させてなるものかという“エキサイティングリーグ・パ”の殺伐とした空気もあった。そんな中、西武は初の前期Vを勝ち取り、プレーオフで大沢啓二監督率いる日本ハムを破ると、日本シリーズでも中日を4勝2敗で下し、ついに西武ライオンズ初の日本一に。ペナントでは25本塁打を放ったテリーは、シリーズ第6戦でバックスクリーン直撃弾を含む4打数4安打の大暴れ。大一番で主軸の働きを見せた。

82年、西武として初の日本一に輝いたときのビールかけ


 初の日本一に敵地名古屋から新幹線で帰京するや、ナインは銀座の高級クラブの大祝勝会へ直行。これまでの日本球界の慣習では、外国人選手がこの手の打ち上げに参加することはなかったが、チームリーダーの田淵はクリーンアップを組んでともに栄光を勝ちとった両助っ人にどうしても来てほしかった。「ヘイ、テリー、スティーブ。きょうはメチャクチャに飲みまくろうぜ」と誘えば、シリーズMVPのエース東尾修は「ユーたちと一緒でなくちゃこの会の意味がないじゃないか」と説く。

 熱心な誘いに感激したテリーはアルコールを飲めないはずが、「今日は本当に嬉しいよ。ボクもワインなら少しは飲めるから」と上機嫌にグラスを傾け、最終的にはワインボトル一本を空にした。相棒のスティーブも超恐妻家として知られていたが、勇気を出して公衆電話の受話器を握ると「今日はみんなと遅くまで飲むから帰れないよ」コール。ナインは「すごいな、スティーブ」なんつって驚いてみせた。週ベ83年5月30日号によると、選手だけでなく球団も両助っ人に気のきいたプレゼントを贈る。坂井保之代表から電話で「家族を連れてハワイに遊びにおいで」と、当時としては異例の外国人選手もハワイV旅行に招待したのである。万全のバックアップ体制で、西武ライオンズは本気で新時代の球界の盟主を目指していた。

日本シリーズ連覇に貢献


 そんなチームのサポートにテリーも応えた。合気道の翻訳本を読み、好物は新鮮な魚を使った寿司だ。選手名鑑の趣味の項目が、来日当初の「カメラ撮影」から、気がついたら「パチンコ」になっていた日本通。母国の幼稚園に通う息子のチャールズ君との再会を待ち望む、自他ともに認める子ども好きは広く知られるようになり、第1回の「ベスト・ファーザー イエローリボン賞」の特別賞を受賞した。

 3年目のシーズンを迎えるにあたり、極端なクラウチングスタイルから、首脳陣のアドバイスに従い上体を起こしたオーソドックススタイルにチェンジ。83年は同僚の田淵と序盤から本塁打と打点の二冠を争った。最後はそれぞれ門田博光(南海)と水谷実雄(阪急)に逆転されるが、38本塁打、109打点はリーグ2位。リーグ連覇の原動力となると、巨人との日本シリーズは世間の注目を集め、デーゲームにもかかわらずテレビ視聴率は脅威の40%超え。史上最高とも称される熱戦が続き3勝3敗で迎えた第7戦、雨で1日延びた11月7日西武球場での決戦は、巨人2点リードで迎えた7回裏にドラマが起こる。

83年、巨人との日本シリーズ第7戦の7回に決勝の逆転二塁打を放った


 天敵・西本聖を攻め立て無死満塁のチャンスを作ると、打席にはテリー。西本のシュートにいいようにやられていたが、直前に広岡監督から「センターに打て」と指示されていた。すると2球目の外角低めのシュートをさからわず逆方向に打ち返す。打球は悲鳴に近い大歓声の中、左中間を真っ二つに破り、走者一掃の逆転タイムリー二塁打。これが決勝点となり、西武は悲願の打倒巨人を果たす。試合後には広岡監督や田淵に続き、殊勲者のテリーもナインから歓喜の胴上げ。そして、この球史に残る一打が、テリー・ウィットフィールドが日本で放った最後の安打となった――。

 球団は当然、主砲の残留を望んだが、広岡流の激しい練習や罰金システムを科せられる管理野球に窮屈さを感じていたテリーは、84年から31歳にしてメジャー復帰を選択する。3年間で通算85本塁打という数字以上に、大きな功績とインパクトを残した助っ人であった。

今でも語り草の通勤姿


 その男の通勤姿は今でも語り草だ。ナイトゲームの日は正午過ぎに都内のマンションを出ると、バスで国電の恵比寿駅へ。池袋駅で乗り換え、親会社の西武池袋線急行に揺られること40分。西所沢駅でまた乗り換えて、西武球場につくのは14時前だ。総時間はしめて90分。試合後は池袋までの急行が終わっているので、帰宅するまで2時間弱はかかる。

 テリーは規則正しく、そんな通勤生活を3年近く続けた。その風景は名物となり、『サンデー毎日』83年6月12日号には、188センチの長身を丸め英字新聞片手に吊り革につかまり、電車に揺られるテリーの写真が掲載された。電車通勤の最中に少年ファンからサインをせがまれると、イヤな顔ひとつせずに応じるジェントルマン。記事では「サイン会などを除き、フリーでサインした数はテリーが一番多いのではないだろうか」とリポートしている。

 80年代中盤以降に名実ともに黄金時代を迎えるライオンズだが、その庶民派の心やさしき大リーガーは、確かに“常勝西武”の礎を築いたのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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