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パンチ佐藤の漢の背中!

「どんな患者さんも怖くない」整骨院を経営する元広島ドラフト1位・川島堅氏/パンチ佐藤の漢の背中!

 

野球以外のお仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、今回はカープ特集ということで、ドラフト1位で1988年に入団した川島堅さんを訪ねました。現在は東京・小平市で、「一橋整骨院」を経営されています。
※『ベースボールマガジン』2021年6月号より転載

初先発の巨人戦で原辰徳さんを抑え……


パンチ佐藤氏[左]、川島賢氏


 中学時代までは、軟式野球で外野を守っていた川島さん。東亜学園高入学後、監督に命じられ、投手に転向した。

「初めは硬式球が重いし滑るし、変化球も投げられなくて、投手が嫌で嫌でしょうがなかった」川島さんだが、1年が経ち、硬球に慣れると、頭角を現した。エースとして86年夏、87年夏と2年連続甲子園に出場。最後の夏となった87年は準決勝で、準優勝した常総学院高にサヨナラ負けを喫した。

 その年のドラフトで、3球団が1位指名。広島カープがクジを引き当て、入団が決まったのだった。

パンチ 俺、ファームで川島君と対戦してるよね。お世辞じゃなく、高校時代からキレイなフォームでね。なんかいつも困った顔をして投げていたイメージがあるんだ。「おりゃーっ!!」という感じじゃないんだよね。あれはなんでなのかな?

川島 高校時代から淡々と投げるほうで、あまり表情を出さないようにしていたんです。

東亜学園高では高3夏に甲子園出場し、準決勝で島田直也擁する常総学院高に延長戦で敗れた


パンチ 本当に完成されたフォームで、“唸る剛速球”というわけじゃないんだけど、ボールが小さく見えるタイプだった。阿波野(阿波野秀幸=元近鉄ほか)、西崎(西崎幸広=元日本ハムほか)なんかがそうだったね。あのころ、カープは投手王国だったでしょう。ベンチ入りしていたピッチャーは誰?

川島 先発は北別府(北別府学)さん、大野(大野豊)さん、川口(川口和久)さん、長冨(長冨浩志)さん。中継ぎに川端(川端順)さん、白武(白武佳久)さん、金石(金石昭人)さん、清川(清川栄治)さん、若手で紀藤(紀藤真琴)さん、抑えに津田(津田恒実)さんですね。

パンチ 完璧だね。

川島 付け入る余地がなかったです。ケガ人が出ない限り、ほぼ入れ替えがないくらい、ピッチャーは固定されていました。

パンチ 誰を見て、厳しいなと思った? その基準のラインというか。

川島 北別府さんはコントロールが抜群に良かったので、ああならないと上では勝てないんだなと思いました。あとスピードに関しては、皆さん140キロ以上は放っていましたので、やはり常時そのぐらいのスピードが出ないと、一軍ではまともに勝負できないんだなとは思いましたね。

パンチ 「プロでなんとかやっていけるかもしれない」というところをつかんだのはいつごろ?

川島 1年目の春から、二軍のローテーションに少し入れてもらいました。それで夏ごろ、一軍に上げていただいて、投げさせてもらえたんです。いいときの状態であれば、一軍でもゲームは作れるかなという感触は、そのころからありました。

パンチ 誰との対戦で、そういう手応えを感じたの?

川島 初先発(88年9月25日、広島)が、巨人戦だったんですよ。原(原辰徳)さんが四番を打っていまして。テレビでずっと見ていた方と2打席ほど対戦して、たぶん打たれていないんですよね。センターフライとか、そんな感じです(記録は右飛、中飛、四球)。そのとき全然調子がよくなかったんですが、なんとか抑えられたので、それだったらゲームは作れるかなと思いました。

パンチ 俺、5年で引退して、そのあとあまりプロ野球を見ていなかったんだよ。だから川島君は、一軍でずっと活躍していたとばかり思ってた。

川島 3年目(90年)の春、ヒジを痛めたんです。そのころ投手コーチから「投げ方を変えないと、生き残れないぞ」と言われて、オーバースローからスリークォーターに変えたんですが……。

パンチ それでヒジを痛めたの!?

川島 「試合の中で作っていけ」と言われて、ぶっつけ本番で(スリークォーターで)投げていたんです。そうしたら5月ごろ、二軍の試合中にブチッと音がしまして……。そのころケガ人が多くて、「ヒジが痛い」とすぐには言えなかったんですよ。ごまかし、ごまかしやっていたんですが、どうにも痛みが治まらなくて、シーズン終盤に「限界です」と言ってCTを撮ってもらったら、ネズミ遊離軟骨がいくつか見つかりました。「早く投げたいから」とクリーニング手術に踏み切って、術後1年は、リハビリ期間になりました。

パンチ なんでフォーム変更を受け入れちゃったのよ。

川島 当時はやっぱり、「はい」と言うしかなかったですね(苦笑)。

パンチ そこで聞かない頑固さも必要なんだろうけどね。

川島 そのときはもう、「それで行かなきゃいけない」と思って切り替えたんですが、体のほうが悲鳴を上げてしまって……。

パンチ たらればの話で申し訳ないんだけど、もしそこでケガをしなかったら、一軍に割って入れたと思う?

川島 僕個人の感覚としては、ストレートのスピード、変化球のキレ、球種、全体の力を見ても、やはり足りなかったと思います。例えば中継ぎで1イニングとか、敗戦処理で何イニングとか一軍で放ることはできたでしょうが、1年間ローテーションを守って10勝できるかと言われたら、たぶん難しかったと思います。

台湾で1年力を尽くしダメなら次の人生を


広島入団後は故障もあり、公式戦成績は18試合登板で1勝4敗だった


パンチ リハビリを終えてから、引退までの経緯は?

川島 丸1年かかってようやく普通に投げられるようになりました。そのときには、もうヒジを壊したころの投げ方では無理だと思って、元の投げ方に戻したんですけど。そこから2年は二軍と一軍を行ったり来たりです。で、7年目の終わり、実家から電話がかかってきて、「お前、新聞に出てるぞ」と言うので、「なんの話?」と聞いたら、「自由契約だ」と。ビックリして球団に確認しました。「もうちょっと早く言ってもらえませんかね」と言ったんですが……(苦笑)。今みたいにトライアウトはない時代で、遅い時期だったからすでに各球団のテストも終わっていたんです。オリックスのテストだけ受けさせてもらったんですが、不合格。ようやくヒジも違和感なく投げられるようになってきていたので、あと1年なんとかどこかでできないかなと思ったけれど、日本は厳しい。そこでふと思いついたのが台湾でした。

パンチ 白黒はっきりさせたい、と。

川島 広島と業務提携していた時報という球団に行くことになりました。そこで1年思い切りやってみて、それでダメなら野球をおしまいにしようと思いました。

パンチ そこではどうだったの?

川島 あまり試合には投げさせてもらえなかったです。外国人選手登録なので、広島の若手はじめ、他の外国人選手との出場の兼ね合いがありまして。

パンチ じゃあ「ここまでだな」って自分で決めたんだ。

川島 球団からは「君は真面目に練習もするんで、もしよければ来年も」とは言ってもらったんですが、僕も27歳になる年でしたし、ちょっと厳しいなと思いました。

パンチ カープでの最高の思い出は?

川島 一軍で一流のバッターと対戦させていただいたのは、貴重な財産になっています。原さんとか落合(落合博満=中日)さんとか、あのクラスの方々とは、対戦したくてもできない人はたくさんいますから。

パンチ 落合さんはどうだった?

川島 コテンパンにやられましたね(笑)。とにかくボールにアジャストするのが上手かった。1球目詰まっても、2球目には100パーセント、アジャストしてくるので、同じ球を2球は続けられなかったです。金属バットで打ったみたいに、ボールが飛んでいったのは、強烈に印象に残っています。

 95年10月、台湾から帰国した川島さんは、実家に戻った。「しばらくは、真っ白に燃え尽きたかのようになってしまって……」何も手につかなかった。

 1カ月ほど経ったころ、「お前、大丈夫か」と家族が心配し始めた。「そろそろ何か始めなければ」と思った川島さん。しかし、いざ何かしようと思っても、何も頭に浮かばなかった。これまで野球しかしてこなかったのだ。社会で生きていくための武器が、何もないことに気が付いた。自分が社会という大海原にポンッと放り出されたような気さえした。

野球を辞めた時点で「別の人間にならなければ」


パンチ 「あしたのジョー」状態から、どうしようと思ったの?

川島 幸い、台湾で1年野球だけに専念して、お給料にまったく手を付けていなかったんです。割とまとまったお金が貯まっていたので、そのお金で学校に行こうと思いました。じゃあ何を勉強しよう。せっかく小さいころから野球を続けて、プロまで経験させてもらったので、何か少しでもその経験を生かせる仕事はないか。そう考えたとき、今までケガして治療を受ける側だったけど、治療をする側ってどうなんだろうなと思いました。そこで広島のトレーナーに相談したところ、彼が以前勤めていた接骨院を紹介してくれたんです。話を聞きに行ったら、それがもう面接で、「明日から来てください」と(笑)。

パンチ ずいぶんトントン拍子だったね(笑)。どこの接骨院?

川島 接骨院を中心に鍼灸院、整体院を運営している株式会社シー・エム・シーというところです。

パンチ まずどんな勉強をしたの?

川島 何も知らずに入って、働き出して初めて柔道整復師か鍼灸師、マッサージ師の資格が必要なんだなと分かりまして。

パンチ それで学校に通ったんだ。

川島 はい。柔道整復師は国家資格なので、3年学校に通って単位を取り、学校内の受験認定試験に受からないと国家試験を受けられないんです。

パンチ 学校に通っていたころは、どんな毎日だったの?

川島 朝は接骨院で、仕事の見習いです。掃除などの開店準備をして、施術時間中は先生のサポートと、患者さんの受付対応。お昼前ぐらいに学校へ向かって、90分2コマ、計3時間勉強して、授業が終わったらまた接骨院に戻って、先生のサポートです。それが夜の9時、10時までですね。

パンチ よくその3年間、真面目に通ったね。

川島 野球を辞めた時点で、もう別の人間にならなければいけないと思ったんですよ。一切野球から離れて、一社会人として。元プロ野球選手とか川島堅とかいう名前は置いて、一から自分を作っていかなければ生きていけないと思ったんです。

パンチ だけど、それができない人が多いんだよな。カープなんかあれだけ練習が厳しいんだからさ、あの練習に比べたらなんだって務まるでしょう(笑)。

川島 僕がお世話になった会社はいくつもの店舗を経営しているので、どんどん新しい子が入ってくるんですが、みんな高校、大学の新卒で、僕より年下なんです。その子たちと同じように勉強しなければならないので、かなりキツかったですよ。やはり若い子は覚えるのも早いし、手もよく動きますからね。

パンチ そうやって頑張って、試験に合格して、将来は自分でこういうお店を持ちたいというイメージや夢は持っていたの?

川島 実際開業しようと思ったのは、かなり経ってからですね。初めは資格を取って経験を積んで、新しい店舗で雇われ院長をさせていただいたんです。この仕事は臨床経験を積まないとできないので、患者さんをなるべく多く診ておいたほうがいいんですよ。自分で開業してしまうと、そう多くの患者さんを診られなくなるから、その前に経験を積んでおかないと。

パンチ 名前のとおり、本当に堅実だよね。大勢の患者さんを診て、つかんだというか……。何年ぐらいで「これだ」って分かるものなの?

川島 僕は10年くらいかかると思います。もちろん5、6年で開業されている方もいらっしゃるので、人にもよると思いますが。

パンチ ここを開業したのはいつ?

川島 2007年ですね。
パンチ 受付から何から、全部一人でやっているんだね。大変じゃない?

川島 逆に、一人でやりたかったんです。雇われていたときはスタッフが5、6人下にいて、その教育もしなきゃいけないし、事務作業も治療もしなければいけない。一杯いっぱいだったので、一人でじっくりやりたいなと思ったんです。目指すは「町の接骨院」なんですよ。

お客さんが「先生、カープファンなの?」


院内に広島のユニフォームを飾っているが、それには意味がある


パンチ 今はコロナの影響もあるかもしれないけど、1日何人ぐらい来てくれるの?

川島 今は15、16人ぐらいです。

パンチ すごいじゃない。

川島 ちょっと少ないんです。

パンチ お客さんの年齢層はどのくらい?

川島 本当に0歳から100歳近い方までです。

パンチ 0歳がどこを治療に来るの?

川島 ヒジを外しちゃったとか、あるんですよ。

パンチ そんなのも治せるんだ。お客さんは川島君が元プロ野球選手だって知ってるの?

川島 知らない人が多いと思いますよ。僕、患者さんにも言ってないし。壁にユニフォームを飾っているのも、大家さんに「殺風景だから」と言われたから。患者さんに「先生、カープファンなの?」と言われたこともあります。ある意味、このユニフォームは自分に対する戒めでもあるんです。結果が出なくて結構つらい思いもした。こういう思いをしたくなければ一生懸命頑張れよって、これを見て思い出す感じですね。

パンチ 俺もちょっと表現は違うけど、「あのときは面白かったし、いい経験をした。でも今のほうが幸せだよ、楽しいよ」っていう人生にしようと思っているんだよ。自分で言うのも照れ臭いかもしれないけど、よそとは違う、よそには負けていないセールスポイントを教えてください。

川島 僕はやはり、“経験”ですね。多くの患者さんを診てきているので、場慣れしているというか、どんな患者さんが来ても慌てることはありません。もちろん柔道整復師の範囲外の患者さんがいらしたときは別の病院をご紹介しますが、それ以外はどんな患者さんがいらしても怖くはないですね。

パンチ 今のところは太字で書いてもらおう(笑)。だって患者さんとして、一番うれしいセリフだもんね。

川島 骨折でも脱臼でも、応急処置はできるので、そこは強みだと思っています。最近の接骨院の先生は外傷を診られない方が多くて、揉み屋さんになっていると聞きますから。ウチの患者さんに学生さんが多いのは、そういう要因があるのかなと思います。

パンチ 今、51歳でしょう。次の夢はどんなこと?

川島 夢は考えていないですね。ここまで結構夢中でやってきたので、夢を考える余裕もなかったというか。まあ自分が死ぬときに「ああ、頑張ったな、もういいかな」って思えるような最期だったらいいなと思います。

パンチ 「日々、今日を一生懸命生きる」という感じかな?

川島 一生懸命やらざるを得ないんですよ。毎日、どこかしら「痛い」という患者さんがいらっしゃるので、中途半端にはできないし、プレッシャーはあります。来てくださった患者さんに対して結果が出せないのは一番恥ずかしいし、つらいこと。自分の引き出しを開けまくって、どれが一番いいんだろうと考えながら、なんとか治してさしあげたいと思っています。

パンチ そうして「良くなったよ、ありがとう」と言われて家に帰って、一晩寝たらまた頑張ろう、という繰り返しだ。

川島 この仕事が好きなので、体が続く限りはやりたいんですよ。本当に体が動かなくなったら辞めますが、そのときに「よく頑張ってきたな」と自分で思えたら、それは夢が叶ったということなんでしょうね。

パンチの取材後記


 元プロ野球選手という肩書にはまったく頼らず、「野球のことを褒められるより、この仕事を褒められたほうがうれしいんですよ」と言っていた川島君。堅実、真面目で、患者さんをなんとか治してあげたいという川島君の思いが心から手へ、指先へ、そして患者さんの腰、背中、首へと伝わって痛みを和らげていくんだろうなと思いながらの対談でしたね。患者さんは、最初に触れられたワンタッチで分かるんですよ。今日はノッてない、いつもと違う……。川島君は一人ひとりの患者さんに対し、常に“一球入魂”の姿勢で施術していると、僕は確信できました。

 僕もいただいた仕事はどんな仕事でも、常に全力でやることを心掛けてきました。またこれからも川島君に負けず、より一層の“一球入魂”で新たな仕事に臨もうと思います。

●川島堅(かわしま・けん)
◎1969年7月20日生まれ、東京都出身。東亜学園高では2、3年時に連続して夏の甲子園出場。高3夏は準決勝進出し、全国ベスト4となった。その秋、広島、阪神、近鉄の3球団からドラフト1位指名され、広島に入団。89年4月29日の阪神戦(甲子園)でプロ初勝利を完投で挙げたが、それが唯一の白星となった。95年、台湾・時報に入団し、同年限りで引退。NPB通算成績は18試合1勝4敗0セーブ、防御率4.83。現在は柔道整復師として「一橋整骨院」(東京都小平市学園西町1-20-3)を経営する。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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