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平成助っ人賛歌

ハッスルプレーで星野中日を盛り上げた“韓国のイチロー”李鍾範とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

中日再建の切り札



「割り切れないなあ、中嶋クン」

 これは『週刊ベースボール』97年12月29日号、オリックスから西武へのFA移籍を発表した中嶋聡(当時28歳)を報じる記事の見出しである。当初は日本人捕手初のメジャー移籍を目指し、オファーがあった3球団からエンゼルスに絞り交渉をしていたが、マイナー契約で年俸3000万円ほど。

「三番手捕手としてしか見てくれない。これではやはり不安です。本当に行きたかったんだけど、悩みに悩んだ末、あきらめました」

 そして、中嶋は西武に続いて阪急時代の恩師・上田利治が監督を務める日本ハムと交渉。「オリックスでもろくに出してもろてないのに、西武でも伊東の控えやるんか?」とズバリ急所を攻められ、「ズバズバ来ました。逆転ホームランを打たれたような気分です」なんつってグラリ。しかし、最終的に年俸5600万円、契約金2800万円の好条件で憧れの西武・伊東勤との正捕手争いを決断する。もし、このとき中嶋が条件度外視で米球界挑戦を決意していたら、2021年のタイミングでオリックス監督を務めていただろうか? 

 移籍は選手の人生を激変させる。その中嶋と同号で「監督以上の根性男?」と中日入団を報じられたのが“韓国のイチロー”こと李鍾範内野手である。星野仙一監督から「何よりもガッツが素晴らしい。そのガッツ、根性を中日の選手に教えてほしい」なんて熱烈ラブコールを送られると、“フライング・リー”の異名を持つ27歳のガッツマンは力強くこう宣言する。

「もう中日の一員。力いっぱい頑張ります。とにかくスピードを生かしたい。ヘッドスライディングではベースの5メートル手前から飛びます!」

 当時ですら根性論は前時代的と賛否はあったが、ケガを恐れない弾丸スライディングを武器にする球界の“爆弾小僧”ここにあり。韓国ヘテ時代は2年目の94年に打率.393をマーク。196安打、84盗塁はKBO新記録だった。来日前年も64盗塁で2年連続3回目の盗塁王に輝いた俊足に強肩を生かした遊撃守備は、ナゴヤドーム開業元年を最下位で終えた星野中日にとって、チーム再建への切り札だった。

トップバッターで好スタート


ヘテ時代の李


 小さい頃に張本勲の映画を見て日本球界を知り、秋の日韓野球で対戦するうちに自分も日本球界でプレーしたいと思うようになる。8歳上の大先輩・宣銅烈の日本行きとは違い、まだ5年しかKBOでプレーしていない李の移籍希望は難色を示されるが、当時の韓国は、バブル崩壊後の不況で山一証券が自主廃業した日本と同じく、「財閥」と総称する大手、中堅グループの企業グループが経営難で続々と倒産していた。李が所属するヘテグループも危機的状況にあり、選手への給料全額が支払えず、一部は現物支給になっていたほどだ。経営悪化で身売りも囁かれたが、中日から宣の2年間の借り入れ延長金2億円が支払われると、ソウルでの契約調印会見でヘテ球団社長は中日・伊藤修代表の手を「感謝している」と握りしめて離さなかったという。

 今度も球団は李のレンタル料目当てに移籍を認めるのではないか、行き先は巨人か中日か……。現地の報道が加熱する中、最終的にヘテにトレードマネー4億円と年俸8000万円を支払った中日入りが決まる。98年春の沖縄キャンプには新背番号8をつけた李と前年最多セーブを獲得した宣を追い、韓国から多くの取材陣が集結した。その期待に竜のエイトマンはプレーで応える。オープン戦開幕のオリックス戦、「一番・遊撃」で先発出場するといきなり第3打席でド派手な満塁弾デビュー。さらに二盗を決め、守備でも三遊間の深いゴロをさばき一塁へロケットアームを披露。ゲーム前に報道陣の要望で李と握手を交わしたイチローも、「全体的なバランスがいいですねえ。身体能力がかなり高いんじゃないですか」と驚いてみせた。西武とのオープン戦では前年パ盗塁王の松井稼頭央と日韓“足の競演”が話題に。野球選手のアスリート化を象徴する21世紀型プレーヤーと注目を集めた。

イチロー(左)とのツーショット


 新浦寿夫が直撃した週べ98年3月16日号インタビューでは、ショートレギュラー争いについての自信を聞かれ、「日本ではまだただの一選手に過ぎません。だから実際にプレーを見てもらって、自分はこういう選手だというのを見せてからじゃないと、そんなことは言えませんよ」と謙虚に答える一方で、「今でもホテルの部屋でセ・リーグのピッチャーのビデオを観て研究しています。日本に来て、韓国の時と同じように実力を発揮すれば、結構できると思います」なんて自信もチラ見せ。 

 その言葉どおりに李は強竜打線を牽引する。広島との98年ペナント開幕シリーズでは「一番・遊撃」で初タイムリーに好守と2勝1敗の勝ち越しに貢献。普通なら諦める打球にも食らいつくためエラー数は多かったが、星野監督は「李が塁に出ないとチームに活気がないんだ。アイツが出ればみんなが勢いづく」と信頼を寄せ、トップバッターで起用し続けた。盗塁のたびに忍者シールをヘルメットに貼るルーティンはナインにも流行。体を張ったハッスルプレーでよくトレーナーの世話になったが、「骨折以外は僕に伝えないでください」と小さな故障なんか関係ないという闘将好みのプレースタイルでチームに馴染み、ロッカールームでは同僚の落合英二からもらった「安全地帯」のCDを聴きながら日本語の勉強に励んだ。4月下旬には、韓国で2年連続最多勝利と最優秀救援投手の実績を持つサウスポー李尚勲(日本での登録名はサムソン・リー)のメジャー移籍話が流れ、中日に入団。茶髪のサラサラロングヘアーがトレードマークの27歳。「キムタク、金城武、サムソン・リー」の“アジア三大ロン毛”と呼ばれた左腕の電撃加入で、中日に韓国三銃士が揃い踏みした。

ケガで離脱してチームもV逸


全力プレーが李の身上だった


 しかし、だ。すべてが順調で背番号8が名古屋のスターになろうとしていた6月23日、来日56試合目で事件が起きる。本拠地での阪神戦、先発の川尻哲郎が投じたインハイへのシュートが、打ちにいった李の右ヒジを直撃。転倒して痛みにのたうち回る背番号8は、そのまま名古屋市内の病院に直行する。診断結果は「右肘頭骨(ちゅうとうこつ)骨折」の重症。さらに翌日の再検査でボルトを入れる手術が必要と判明し、シーズン中の復帰は絶望的と報じられた。なお、川尻は中日に滅法強く、その日までに3連敗を喫する天敵だったため、島野育夫ヘッドコーチは試合前にスタメン野手全員に「打席の前に立って打て。川尻の内角球を封じろ」と指令を出し、それを忠実に実行したのが李というわけだ。ベースにかぶさるように立ち川尻にプレッシャーをかけるも、その上体を起こそうと投じられたシュートを避けきれなかった。開幕から不動の一番打者としてフル出場を続け、その時点の17盗塁はリーグトップだった男の長期離脱は、首位を争うチームにとって大きな痛手となる。

「たら、ればはこの世界の禁句だが、李のリタイアさえなければ(横浜と)どっちが優勝したか分からなかった」

 あの骨折さえなければ……島野ヘッドコーチはシーズン後にそう悔やんでみせた。それほど98年序盤の李の存在は大きかったのだ。ペナント終盤の9月19日に外野手として戦列復帰するも、以前の打撃が戻らず、全日程を終えた10月13日に再入院して患部のボルト摘出手術。1年目は67試合ながらも、打率.283、10本塁打、29打点、18盗塁。前評判どおりの走力に2ケタアーチのパンチ力も兼ね備えていた。「今度バットを手に持ったら、球の避け方から練習し直すよ。もうね、もうケガだけは沢山だから」とリハビリに励んで迎えた勝負の2年目。なお99年開幕前、順位予想企画では評論家43人中24人が1位中日をあげる優勝の大本命だったが、李は話題のルーキー福留孝介の入団もあり遊撃から本格的に外野コンバートが決定する。前年のイチローが記録した12個の補殺がパ・リーグ最多だと聞けば、「目標はやっぱりイチローだね。彼のいいプレーを参考にして、どんどん盗んでいきたい。どうせやるなら12個とは言わず、13個か14個をマークして補殺王になりたい」とガッツマンは前を向いた。

ファームで戸惑いながらも


 日本タイ記録の開幕11連勝とスタートダッシュに成功した99年の中日は、6月に野村阪神、9月には長嶋巨人に追い上げられるも、王監督率いるダイエーと巨人の「ONシリーズ」実現を願うメディアの雰囲気に腹を立てた闘将・星野が、最後は怒りの8連勝で11年ぶりのリーグVを達成する。途中、自らの希望で森野将彦から譲ってもらい韓国時代の背番号7に戻した李は(森野は8に)、深刻なスランプで円形脱毛症に悩まされながら123試合に出場。打率2割3分台と低迷し9月以降はスタメンから外れることも増えたが、その足は健在でチームトップの24盗塁をマークした。

 だが3年目は、現役大リーガー・ディンゴの加入により、屈辱の開幕二軍スタート。週べ2000年7月3日号のインタビューでは、その心境をこう語る。

「初めてファームに行ったときは戸惑いました。「どうして、私がここいなきゃいけない?」と。でも、腐ったらおしまい。「ここは我慢。この経験がいつかきっと役に立つ」と信じて、気持ちを入れ替えました。ファームでは早起きするのが大変でしたね(笑)。(ナイター中継を見て)悔しい気持ちもありましたけど、自分はお呼びがかかるのを待つしかない身ですから、どうしようもなかったですね」

 力と力の対決ではなく、投手が打者をかわそうと外へ逃げるボールと変化球が多い日本野球への戸惑いもあった。
 
「ボクシングに例えると、韓国プロ野球や大リーグは“一発KO”を狙っているような、そんな野球です。それに対して日本の野球はジャブが多い。一発に頼るのではなく、ジャブ、ジャブ、ジャブの連打で相手をジワジワとKOに追い込んでいく感じですね」

01年5月の退団会見


 それでも決して腐らず、ファームでは開幕から13試合連続安打、打率4割超えと文句のつけようがない結果を残した30歳の李は、打撃不振のディンゴに代わり4月下旬には一軍復帰。113試合で打率.275、8本塁打、37打点、11盗塁と意地を見せた。しかし、翌01年はほぼ構想外となり、出場機会が激減して5月下旬には退団発表。その年のシーズン途中からKBOに復帰した。中日の4年間で通算311試合、打率.261、27本塁打、99打点、53盗塁。韓国での圧倒的な実績を考えると物足りない数字だが、その記録以上に記憶に残る助っ人選手だった。なお、骨折からリハビリ明けの99年オープン戦では4個もの死球を受け、周囲の後遺症を心配する声にガッツマン李鍾範は平然とこう答えたという。

「韓国では投球に腰を引こうものなら(味方の)ベンチから怒鳴られる。“当たるくらいの気合いでいけ”ってね」
 
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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