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背番号物語

【背番号物語】阪神「#50&#75」最多勝、最高勝率の青柳と、最多セーブのスアレス。その背番号の系譜は?

 

指導者の背番号だった歴史


阪神・青柳[左]は「50」、スアレスは「75」と大きい背番号を着ける


 2021年、セ・リーグで健闘を見せた阪神の投手陣から2人のタイトルホルダーが登場した。13勝、勝率.684で最多勝、最高勝率の2タイトルを獲得した青柳晃洋が背負うのは「50」。42セーブで最多セーブに輝いたスアレスは「75」だ。近年は大きい背番号をブレーク後も小さくしない選手も少なくないとはいえ、こうした選手では打者が優勢という印象もある。言い換えれば、タイトルを獲得する投手は若い背番号を着けていることが多いということ。実際、セ・リーグで投手タイトルに輝いたのは10番台の投手が圧倒的で、青柳とスアレスは異彩を放つ。

「50」も「75」も、これまでは他のチームも含めて圧倒的な成績を残した選手は少ない。この連載で「50」は巨人駒田徳広を紹介したが、この駒田も「10」と若くして2チームで活躍しており、投手としてのプロ入りだったとはいえ、“満塁男”として名を残した好打者だった。同じセ・リーグでは、ヤクルトのホーナーも「50」で旋風を巻き起こしたものの、在籍は1年に満たず、やはり打者だ。青柳には最多勝も最高勝率も初の戴冠で画期的なことだが、背番号の物語でも画期的といっていいのかもしれない。

【阪神】主な背番号50の選手
浜田知明(1983〜89)
麦倉洋一(1990〜93)
古溝克之(1994〜98)
藤井彰人(2011〜15)
青柳晃洋(2016〜)

 一方、「75」を紹介するのは初めてとなる。この「75」に限らず、70番台の背番号は指導者のナンバーとなってからの歴史も長く、これは現在も傾向が大きく変わったわけではない。「75」を背負った名選手には阪神でブレークした加藤博一もいたが、「75」だったのはドラフト外で入団した西鉄(現在の西武)での3年間で、一軍出場は3試合のみ。他には広島の黄金時代を継承した阿南準郎監督や2001年にヤクルトをリーグ優勝、日本一に導いた若松勉監督ら名だたる指導者がいる。スアレスの戴冠は青柳と違って2年連続2度目となるが、背番号の世界では青柳よりも画期的といえそうだ。

【阪神】主な背番号75の選手
白坂長栄(コーチ。1971〜74)
岡義朗(コーチ。1990〜95)
遠山奨志(コーチ。2005〜09)
高橋光信(コーチ。2011〜15)
ロベルト・スアレス(2020〜)

「50」の最長は同じドラフト5位の右腕


 初めて4年に近づいたのは1リーグ時代から活躍した右腕の梶岡忠義……なのだが、58年からの4年間で、コーチとして。近年は選手の背番号だが、「50」も古くは指導者の背番号で、監督が着けることも珍しくなかった。初めて5年を超えたのは83年から89年まで阪神ひと筋、一貫して「50」を背負った浜田知明。青柳と同じドラフト5位の入団で、やはり1年目から「50」だった右腕だ。故障に苦しみながらも87年には自己最多の23試合に登板。白星のないまま引退したが、青柳の「50」につながるルーツといえる存在だ。

 その後継者となったのも右腕の麦倉洋一で、2年目に2勝も、やはり故障に苦しめられ94年に「42」となり、翌95年に現役を引退している。その94年にオリックスから来て「50」を継承した左腕の古溝克之からは、移籍で加入した選手たちの系譜となり、ヤクルトから来た捕手のカツノリ、広島から来た町田公二郎や高橋光信ら“代打男”と、顔ぶれも多彩だ。11年から背負ったのが楽天から来た捕手の藤井彰人で、2013年には113試合に出場するなどベテランの存在感を発揮。それ以上に“男前”で鳴らした(?)藤井の引退で後継者となったのが“雨男”の青柳だ。タイトルホルダーということだけでなく、生え抜きという点でも青柳は系譜でもエポックになりそうだ。

 一方、スアレスの「75」は期間が長めなのは指導者ばかり。奇しくも、選手として「50」を着けた高橋がコーチとして11年から5年間「75」も背負っていて、青柳もスアレスも高橋の後継者ということになる。従来の背番号物語は、ひとつの背番号を選手がリレーすることで紡がれてきたものだが、助っ人が一般的には指導者が着けるような大きな背番号で活躍するのは近年の阪神では珍しくないこと。まったく別次元の背番号物語が阪神で始まっているのかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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