バッテリーは夫婦に似ている?
今日、11月22日は、数字の語呂合わせからなのか“いい夫婦の日”らしい。最近は滅多に見られなくなり、見られたとしても多方面から叩かれそうだが、かつてのプロ野球では投手と捕手、つまりバッテリーが、しばしば夫婦にたとえられていた。グラウンドのド真ん中で脚光を浴びるのが投手、その投球を受け続けているのがマスクで顔が隠れ、プロテクターで背番号も見えづらい捕手。この関係が古い時代の夫婦関係に似て見えたのだろう。
だが、しかし。この“夫婦関係”を、前時代的な男尊女卑の亡霊のように浅く見てはいけない気がする。確かに、たとえば投手がノーヒットノーランを達成すれば名前が残るが、それをリードし続けた捕手の記録にはならない。プロ野球で完全試合を達成したのは15人。その名前を挙げることは難しくないが、このときの捕手を振り返るのには何倍もの手間を要する。その意味では、ぞんざいな口を利く夫に敬語で従う妻にも見えなくもない。とはいえ、本質的に夫を支配しているのは妻であり、なんだかんだで妻がいなければ家では何ひとつできない夫というのも当時からいたはずだ。これは古い時代のバッテリーも似て見える。以下、当時の時代背景を尊重して(?)、古い表現を用いる。ご了承いただきたい。
21世紀に入って歴史を終えた近鉄で、20世紀に最多の通算317勝を残した左腕の
鈴木啓示は“愛妻”に有田修三がいた。同じ近鉄では、メジャーでも活躍した右腕の
野茂英雄は
光山英和が”愛妻”。同じく横浜(現在の
DeNA)からメジャーへ移籍した佐々木主浩は、クローザーという役割ゆえに、当初は正捕手の
谷繁元信を信頼できず、ウイニングショットのフォークを体で受け止める秋本宏作を“愛妻”としていた。これらは、どんな名投手も、その投球を支える名捕手の存在がなければ真価を発揮しきれないということの証左でもあるだろう。“投尊捕卑”という単純な二元論で割り切れるようなものではない。
ジェンダーレスだったりジェンダーフリーだったりする昨今。「Aというチームでバッテリーを組んでいたBとCが結婚!」という日も来るのかもしれない。
文=犬企画マンホール 写真=BBM