週刊ベースボールONLINE

平成助っ人賛歌

元ヤンキースの四番を打った実力者は超問題児…同僚から“嫌われた助っ人”メル・ホール/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

「日本の野球なんてイージーさ」


ロッテ・ホール


「人と同じことをしても活路は見いだせませんから」

 これは別冊『ベースボール』1993年編に掲載された、21歳・新庄剛志のコメントである。93年7月29日の広島戦で13、14号を連発。「やっぱりアベレージよりホームランですよね」とプロ初の2打席連続アーチを本拠地・甲子園でかっ飛ばした虎のプリンスは、一軍で活躍しながら、二軍戦にも志願出場。そのド派手なイメージとは裏腹に野球には真摯に向き合った若き日のビッグボスである。

 この年、球界ではひとりの新外国人選手が幕張で旋風を巻き起こしていた。千葉ロッテマリーンズのメル・ホールだ。メジャーで12年間プレーして、通算134本塁打。来日前年の92年も打率.280、15本塁打、81打点の好成績で、左打ちのスラッガーはヤンキースの四番も打った。脂の乗りきった32歳の現役バリバリの大リーガーだ。キャンプイン前日の93年1月31日、ロッテの首脳陣にお披露目のフリー打撃で40スイング中14本のサク越え。八木沢荘六監督から「30本は期待しているよ」と激励されると、「たぶん、40本ね」とホールは自信満々に答えた。日本の野球なんてイージーさ。彼には「オレはメジャーで四番を打ってきた」という強烈な自負とプライドがあった。『週刊ベースボール』93年3月8日号でパンチョ伊東の直撃を受けたホールは、日本に来た理由をこう語っている。

「ボクは大リーグでシカゴ・カブスを皮切りに、クリーブランド・インディアンス、ニューヨーク・ヤンキースと10年プレーした(実働は12年)。いわゆる10年選手だよ。(なぜロッテ入りを?)ちょうどいい潮時だし、マネーも良かったからね。2年契約したのは確かだけど、金額についてはコンフィデンシャル(秘密)さ。とにかくグッド・サラリーとだけいっておくよ」

 ロッテは2年連続最下位から脱しようと、1年200万ドル(約2億5000万円)の球団史上最高年俸でこの背番号23を迎え入れていた。友人のセシル・フィルダー(元・阪神)から日本の野球や食べ物について情報を仕入れたし、蒸し暑さも気にしないと余裕を見せるホール。傍らではタオルを渡したり、雑用に走るデービスという付き人までいる。そして、実力は本物だった。開幕するとその打棒をいかんなく発揮したのだ。

 不動の「四番・DH」として、いきなり打率.296(リーグ5位)、30本塁打(同3位タイ)、92打点(同2位)とチーム三冠王の好成績に加え、盗塁数21も西村徳文と並んでトップタイ。頭頂部だけ髪の毛を残す、M.C.ハマー風の髪型でJR京葉線に乗って出勤すると、練習は「オレはメジャーのやり方にこだわる」と軽いアップとフリー打撃で終わり。残り時間はのんびり外野に寝そべりマッサージを受けたり、スタンドの女性に「ハイ、ハニー」なんて声をかける。試合中は、DHの自分の打順が回ってくるまでロッカールームでテレビゲームに熱中した。

 そう、ホールは圧倒的な実力者であると同時に問題児だった。乱闘では自分が当てられたわけでもないのに相手捕手に馬乗りになってボコボコに殴り、試合中にもかかわらず家族をベンチ裏に呼ぶ。当時の同僚・愛甲猛も自著『愛甲猛のプロ野球ガチンコ観戦ノート』(オークラ出版)の中で、その目に余る素行の悪さを指摘している。もうひとりの助っ人マックスと掴み合いのケンカをしたかと思えば、94年に入団した若いミューレンをバカにしてイジメ続ける。日本人選手だけでなく、外国人選手の間でも性格の悪さから敬遠されていた。元ロッテのエース小宮山悟はNHKのテレビ番組で、「悔しいのが、そんな最低なやつがロッテの中で一番の成績を残してしまったこと」だと嘆いてみせた。

「ネクストイヤー、ロッテ。ノー」


トレーニングで卓球をするホール。これもメジャー流?


 ホールは打ちまくるも、93年のチームは5位。翌94年も背番号23は22本塁打、80打点と結果を残すが、ロッテは低迷し、8月2日には八木沢監督の休養と中西太ヘッドコーチの代理監督就任を発表する。自信家のホールは自分が打っても勝てない環境に大きな不満を持ち、なんと巨人戦が行われていた東京ドームに足を運び、ロッカールームまで入り、自分の存在を売り込んだこともあった。もう34歳、選手生活もあと数年だろう。だったら客が多いセ・リーグの優勝を争えるチームでプレーしたいというわけだ。週べ94年11月7日号には、ロッテでの最終戦終了後に「解雇」を告げられると、明るい表情のまま自分の右手でクビを切ってみせる仕草をして、「ネクストイヤー、ロッテ。ノー」と繰り返すホールの様子がリポートされている。

 ようやくこことの契約が終わったぜ……と言わんばかりの態度に周囲も呆れたが、試合中のベンチ裏での奇行の数々については、こんなエクスキューズをかます。

「DHだと、ベンチにいる時間が長いから、どうしても体も心も緊張しっ放しになってしまう。守りにつけば、体が動いているし、大丈夫なんだけどね。打席に入ったときに、集中できるように、それ以外のときはリラックスしようと努めているんだ。それが、素行が悪いと見られるのは心外だよ。セ・リーグなら守りに就くから、その心配もないね」

 まるで、期末テストのとき集中できるようにそれ以外の時間はリラックスしてファミコンをやってます……レベルで苦しい言い訳だが、95年にホールは巨人との争奪戦を制した中日への移籍を決める。年俸2億円の新四番ホールの前後を、本塁打と打点の二冠・大豊泰昭と首位打者のパウエルが固める強力クリーンアップは、“恐竜サンフレッチェ”と恐れられた。ロッテでは2年間で1試合しか就いていない外野守備の不安については、例によって「オレは10年間、大リーグで外野を守ってきたんだ」と反論。中日移籍直後の週べ95年3月6日号インタビューでは、ナチュラルに古巣を批判するコメントを連発している。

「中日には好打者、好投手が揃っているから、全体的に考えて、ロッテのときより野球を楽しむことができそうだよ」

「ロッテではお客さんが少なすぎるから、集中するにしても物足りない部分があったのは、事実だね。名古屋には熱狂的なファンが多いということは聞いているよ」

中日で意気込みを見せるも……


95年は中日でプレーした


 人格は置いといて、首脳陣は広い千葉マリンを本拠地にしながら2年間で52本塁打を放ったパワーなら、狭いナゴヤ球場だったら40発も可能だとふんでいた。ホールは前年の巨人との同率優勝決定戦“10.8”もテレビ観戦したという。

「あんな雰囲気の中でゲームができるのはうらやましい。巨人もオレを誘ってくれたことは確かだが、結果的にオレは中日の人間になった。95年は、オレが巨人を叩いてやる」

 そう意気込みを語るも、試合用グラブはボロボロで両ヒザの故障から満足に外野を守れず、最後は一塁へ。50試合の出場で打率.236、12本塁打とふるわず構想外に。早々にV戦線から脱落したチームは、6月3日に高木守道監督が突然辞意を表明し、徳武定祐ヘッドコーチが監督代行に就任。その後、さらに島野育夫二軍監督に代わる混乱ぶりで優勝候補のはずが、終わってみれば5位に沈んだ。ちなみに、95年シーズンは“30億円補強”と開幕前に騒がれた長嶋巨人も3位に終わり、セ界を制したのは野村ヤクルトだった(日本シリーズではオリックスを下して日本一に)。

 結果的にホールのいるチームは2年連続で監督途中交代という珍記録を残し、3年間で64発という成績で日本に別れを告げた。今度はもう、声をかけるNPB球団はなかった(現在、ホールは犯罪を犯し、刑務所で服役中である)。

 なお、1995年と言えば、元・近鉄の野茂英雄がドジャースで大活躍をしたシーズンだが、開幕前にトルネードが大リーグで通用するか聞かれたホールは、上から目線のこんならしい言葉を残している。

「野球以外の生活面さえ普通にいけば、8勝はできると思うよ。オレと対戦するときには、勝負してくれなかったけどね」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング