週刊ベースボールONLINE

HOT TOPIC

新庄ビッグボスは背番号「1」。同じように1ケタ番号を背負った監督は何人いる?

 

 一挙手一投足に注目が集まる新庄剛志ビッグボス。背番号は「背番号1にふさわしい選手が出てくるまで」という条件付きではあるが「1」に決定した。現役時代に着けていたなじみのある番号ではあるが、監督が1ケタを背負う例は近年珍しい。過去には第2次巨人監督時代の長嶋茂雄が「3」を背負い話題となったが、1ケタ背番号の監督は過去に何人いるのだろうか?

2000年以降でも7監督が1ケタ番号を背負う


来季は背番号1で指揮を執る日本ハム・新庄監督


 1リーグ時代から2020年までにチームの指揮を執った中で、1ケタの背番号だった監督(選手兼任、監督代行を含む)を以下にまとめてみた。

山下実 背番号2(阪急軍/1939年〜1940年)※選手兼任
杉田屋守 背番号7(黒鷲軍/1941年)※選手兼任
岩本義行 背番号1(南海軍/1942年)※シーズン中に一時選手兼任で監督就任
鶴岡一人 背番号1(南海軍/1946年)※選手兼任
皆川定之 背番号6(東急/1948年)※シーズン途中から選手兼任で監督就任
有馬義一 背番号1(大洋/1951年)※シーズン途中に就任
小西得郎 背番号1(大洋/1952年)
笠原和夫 背番号4(高橋/1955年〜1956年)※選手兼任
林義一 背番号5(近鉄/1959年)※選手兼任
濃人渉 背番号1(中日/1961年〜1962年)※当時は濃人貴実で登録
中西太 背番号6(西鉄/1962年〜1969年)※選手兼任
小玉明利 背番号2(近鉄/1967年)※選手兼任
大下弘 背番号3 (東映/1968年)
吉田義男 背番号1(阪神/1975年〜1977年)
王貞治 背番号1(巨人/1984年〜1988年)
長嶋茂雄 背番号3(巨人/2000年〜2001年)
山本浩二 背番号8(広島/2001年〜2005年)
バレンタイン 背番号2(ロッテ/2004年〜2009年)
コリンズ 背番号1(オリックス/2007年〜2008年)
金本知憲 背番号6(阪神/2016年〜2018年)
井口資仁 背番号6(ロッテ/2018年〜)
新庄剛志 背番号1(日本ハム/2022年〜)

 今回の新庄ビッグボスを含めると、1ケタ背番号の監督は計21人。特に1リーグ時代や2リーグ制黎明期は1ケタ背番号の監督が多い。この時代は選手が監督を兼任することが珍しくなく、1ケタ背番号のまま監督就任というケースも少なくなかった。

「1」を背負った監督は8人


75年から77年に阪神を指揮したとき、吉田監督は背番号1を着けた


 また、監督就任と同時に背番号を「監督用」の番号に変更する場合も多いが、王貞治、金本知憲、井口資仁のように、現役時の背番号をそのまま受け継ぐという例もある。特に王は選手時代からコーチ、監督時代を通して30年間ずっと「1番」を背負い続けた。同じ番号を途切れることなく背負い続けた例では、32年間「34」を背負った山本昌に次ぐ長さとなっている。

 今回の新庄ビッグボスもそうだが、「1」を背負った監督が意外と多く計9人もいる。例えば、1975年に阪神の監督に就任した吉田義男。現役時は23番(阪神の永久欠番)で1番は縁のない番号だったが、メジャーの名将ビリー・マーチンが1番を着けていたことから自身も1番を選んだという。

 また、珍しい経緯で監督になり、1番を背負ったのが大洋の有馬義一。実は有馬は大洋の球団専務で、プロ経験も指導経験もなかったが、当時監督だった中島治康が急きょ退任して選手に復帰したことがきっかけで、監督を務めることになった(結果はリーグ6位)。

 珍しい1ケタ背番号の監督だが、2000年以降でも先に名前が出ていた金本、井口など計7人と意外と多い。長嶋はそれまでは「33番」だったが、FA獲得した江藤智にその番号を渡し、現役時代の「3」を背負った。山本浩二は第1次政権時は88番だったが、2度目の就任時には現役時代の「8」を着けている。ロッテのボビー・バレンタインの「2番」は、現役時代に着けていた番号で、恩師のトミー・ラソーダが背負っていたこともあり、ロッテ再就任時に2番を選んだ。

 現役監督ではロッテの井口監督、日本ハムの新庄ビッグボスと2人が1ケタ背番号。1ケタの番号は選手が背負うものというイメージが強いが、こうして1ケタ背番号の監督が増えていけば、背番号に関する常識も変わるかもしれない。

文=中田ボンベ@dcp 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング