同じ打順、同じ背番号ながら
シーズンが閉幕すると、ペナントレースとは違った“戦場”での苦闘を余儀なくされる選手は少なくない。FA宣言、戦力外、メジャー挑戦、トレード……。こうした光景も時代とともに変化してきた。
古くはトレードでチームを放出されることが、選手の交換であっても放出、戦力外という印象があった。これが変わり始めたのは、1963年オフ、大毎(現在の
ロッテ)の
山内一弘と、
阪神の
小山正明とのトレードからといわれる。四番打者とエース。1対1のトレードながら、これは“世紀の大トレード”といわれて、オフのプロ野球を大いに盛り上げた。
その30年後、1993年のオフ。FA制度が導入されて初めて迎えるストーブリーグだったが、最大の話題はトレードだった。黄金時代の西武から主砲の
秋山幸二ら3人、九州へ移転してからも低迷を続けるダイエー(現在の
ソフトバンク)からは俊足を誇るヒットメーカーの
佐々木誠ら3人。“世紀の大トレード”と違って同一リーグ内でのトレードであり、“最後の大型トレード”とも表現される3対3のトレードだった。話題の中心は、常勝チームで球界を代表する強打者としての地位を確立していた秋山。その後も、秋山が加入したダイエーが黄金時代に突入したこともあって、このトレードは秋山を中心に語られることが多い。
一方で、92年に首位打者と盗塁王の“2冠”もあったとはいえ、ダイエー側の代表格だった佐々木は、トレード発表の前は
巨人とのトレードが噂されていたことや、ダイエーが低迷チームだったこともあり、あの秋山が移籍する、という事実のインパクトに隠れた印象も少なからずあった。秋山とともに“メジャーに最も近い選手”といわれていたものの、年齢も秋山より若く、プロ入りも秋山より遅く、さらには実績も及ばない佐々木にも重圧だったはずだ。
だが、佐々木は「秋山さんの代役は無理」とポジティブな開き直りを見せ、「今までと同じ佐々木の野球をやる」と結論。迎えた94年、佐々木は秋山と同じ三番打者、同じ背番号1で自己最多の84打点、37盗塁で2度目の盗塁王。初めてリーグ優勝を経験することにもなった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM