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プロ野球回顧録

6打席敬遠に野村監督は「批判は俺が一手に受ける」落合との死闘を制して古田がセ捕手で初の首位打者【プロ野球回顧録】

 

プロ2年目の1991年、強肩で売り出していたヤクルト古田敦也がセ・リーグの捕手として初の首位打者に輝いた。特筆すべきは最後にあの落合博満(中日)と競ってしのぎ切ったことだろう。

野村監督のバックアップ


タイトルを決め、花束で祝福された古田


 10月1日の時点でセ・リーグの打率トップを走っていたのは中日の落合博満だった。打率.350で2位のヤクルト・古田敦也の.340に1分の差だ。3度の三冠王、首位打者5回を誇る落合と、プロ2年目の古田。1年目の古田は打率.250でしかなく、しかも過去、セ・リーグでは捕手が首位打者を獲ったことは一度もない。タイトルは落合で決まったかに思われた。

 ただ、この年、中日移籍5年目だった落合の頭の中には首位打者ではなく、さらにその上、三冠王しかなかったという。87年の中日移籍後、2年間打撃タイトルがなく、「しょせんパだけの成績。ロッテでは優勝争いもしていなかったから」と揶揄されたこともあった。ようやく89年に本塁打王、90年に本塁打王、打点王の2冠。91年は「次は三冠王しかない」と決意をあらたに挑んだシーズンでもあった。

 右足ふくらはぎの肉離れがあり、一度、登録抹消があったが、それでも7月10日に規定打席に到達し、打率1位となると、9月4日には一時11本差があったヤクルト・池山隆寛と本塁打で並ぶ。ただ、あと1部門、打点だけがなかなかトップを走るヤクルト・広沢克己に追いつかない。そのため落合は「多少打率を犠牲にしても打点を増やすため、強引にホームラン狙いのバッティングをした。少々のボール球でも強引に打ちにいってね。その結果が古田に1分差に迫られることになった」という。

 さらに、10月2日から落合は3試合連続ノーヒットで.3389となり、.3391の古田に2毛抜かれてしまう。古田にとっては願ってもないチャンスだ。その後、一度は抜き返された古田だが、8日には.3390で再び1位。13日の“直接対決”(神宮)では落合がヤクルトバッテリーに6打席敬遠され、1試合6四球という日本記録もつくった。この試合、欠場した古田は.339、落合が.335となっていた。

 敬遠の指示を出したヤクルト・野村克也監督は「捕手が首位打者を獲るのは大変なんだ。野球人生でチームを犠牲にしてもと思わせるものがあるが、それがこれだ。古田にタイトルを獲らせる。周囲の批判は俺が一手に受ける」と言い切った。

 古田に対しては「出たいか」「休むか」という打診もなく、強行欠場命令だったという。古田自身は「出る用意はしていましたが、チームに迷惑を掛けました(0対10と大敗)。もしマスクをかぶっていたら手を変え、品を変え、打たせんとこうと必死だったと思います」と振り返っている。

 一方の落合は「覚悟はしてたよ。こんな展開にしてしまった自分が悪い」と淡々と語った。

最後は無心で


「技術的にはまだ試行錯誤」とも振り返った古田


 残り2試合となったところで落合は古田に7厘差をつけられていた。残るは広島とのダブルヘッダー(ナゴヤ)だけで、落合が古田を抜くためには6打数5安打、あるいは9打数6安打以上が必要だった。難しい数字だったが、さすが落合。第1試合の第2打席から第2試合の第2打席まで執念の5連続安打で.3395とし、5毛差で逆転した。

 知人宅で、この知らせを聞いたという古田は、逆に奮い立った。

「じゃあ、俺も打たんとあかん。周りが応援してくれていたし、両親も喜んでくれた。このまま喜ばせてやらなきゃ。それに、このままだと、マスコミがまた『やっぱり落合だ』になってしまう」

 古田に残された道は、16日広島との最終戦(神宮)で1打数1安打、2打数1安打、4打数2安打以上の成績を残すことだった。

 試合前夜は極度の緊張から眠れなかったという古田。合宿所のベッドに横たわったのが23時。しかし、気付けば朝の6時になっていた。その間、何度もあすの先発が予想される広島の足立亘との対決を思い描き、「足立選手の性格なら真っすぐ勝負だろう」と予想していた。

 迎えた最終戦はその年4試合目となる三番に座った。初回、二死走者なしから最初の打席に向かう。狙いは真っすぐのみ。緊張はあったが、迷いはなかったという。初球、狙いどおりのストレートが来るも空振りとなったが、2球目、初球より内寄りのストレートを振ると、打球は三遊間のど真ん中を抜けていった。

「しびれました。こんなにしびれる気持ちってあるんですね。無心でした。考えたのはバットを振ることだけ。どこかに当たればボテボテでも抜けるかもしれない。ポテンと落ちるかもしれない。ヒットになるかもしれないじゃないですか。あとは運を天に任せて、ダメだったらシャーナイと思うしかない」

 最終打率は古田が.3398、落合が.3395。捕手としては恩師・野村(南海時代)以来2人目で、セでは初の首位打者だ。古田は打撃の好調さの要因の1つとして、野村監督から学んだリード術により、相手バッテリーの配球が読めるようになったことをまず挙げていた。

 野村監督は「大したヤツやな。もう20年数年は捕手の首位打者は出んやろ。そのときワシはあの世で見ているんだろうな」と喜んだ。

 ちなみに野村監督の予言は半分当たって、半分外れた。次の首位打者は21年後、2012年の巨人阿部慎之助。野村監督は野球評論家として元気にぼやいていた。

 なお、落合は37本塁打でタイトル獲得、打点王は広沢の99に届かず、91で2位だった。

『よみがえる1990年代のプロ野球 1991年編』より

写真=BBM
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