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プロ野球はみだし録

藤波行雄はトレード通告を拒否して残留も…「あの騒ぎが僕のターニングポイント」【プロ野球はみだし録】

 

最後は「ロッカー、きれいにしとけよ」


76年オフ、クラウンへのトレードを拒否した中日・藤波


 まだトレードによる移籍にネガティブな印象がつきまとっていた時代だ。とはいえ、1976年オフに中日でトレードを通告された藤波行雄の場合は、負のイメージ以上に中日への愛着があったという。

「この年(76年)は104試合の出場。たいした成績を出したわけじゃないけど、これからレギュラーを狙うぞ、と思っていただけにショックでした。好きな球団に入って、どんどん愛着が出ていた。(移籍で)給料は上がると言われたけど、そういう問題じゃなかった」(藤波)

 プロ1年目から即戦力となって新人王に輝いた藤波は、76年がプロ3年目。そのオフ、クラウン(現在の西武)へのトレード通告を、藤波は悩んだ末に「どうしてもトレードというなら引退させてください」と、敢然と拒否する。トレード拒否は前代未聞のことで、藤波の行動には批判が集まったが、藤波に味方したのが中日ファンだった。球団には連日、抗議の電話が殺到。名古屋ではトレード撤回の署名活動が始まった。結局、球団が譲歩。藤波は減俸、春季キャンプへの自費参加、開幕から6試合の出場停止、背番号「3」から「40」への変更などの処分を受けたが、残留を認められた。

「あの騒ぎが僕のターニングポイントでしたね。あれから1打席1打席、ダメならクビだと思って必死に頑張った。それで、そこから11年やらせてもらいましたね。最後は他のチームからも話をもらったんですが、あの騒動で最後はドラゴンズと決めていました。もうファンは裏切りたくなかったんで」(藤波)

 藤波は迎えた77年、規定打席には届かなかったが、後半戦は外野のレギュラーとして打率.318、自己最多の6本塁打。80年には自己最多の119試合に出場した。筋肉が硬いために回復が遅く、シーズンを通して好調を維持するのが難しい体質だったが、その後は左の代打として存在感を発揮。中日ひと筋を貫いて87年までプレーを続けている。ラストシーンではナインによる胴上げもあった。

 ただ、藤波は就任1年目の星野仙一監督から「ロッカー、きれいにしとけよ」と言われたのが忘れられないという。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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