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プロ野球はみだし録

時代を象徴している? 落合とのトレードを通告された牛島和彦の「僕が何かしましたか?」【プロ野球はみだし録】

 

“戦力外”から“戦力の補強”に


86年オフ、自身を含む4人と落合のトレードでロッテに移籍した牛島


 1986年に2年連続3度目の三冠王に輝いたロッテの落合博満がオフに事実上のトレード志願、巨人への移籍が時間の問題といわれた矢先、その新天地として名乗りを上げたのが中日だった。なかなか巨人の交換要員が決まらなかったということもあったといわれるが、就任したばかりの星野仙一監督が「落合を巨人に獲られたら10年は優勝できん」と球団に強く働きかけたためともいう。最終的に中日は落合の獲得に成功。落合1人に対して、中日からは4選手がロッテへ移籍することになる。このうち唯一、移籍を渋ったのが牛島和彦だった。

 牛島はドラフト1位で80年に入団、3年目の82年にリリーバーとしてブレークを果たし、7勝17セーブでリーグ優勝に貢献した右腕。この82年は星野監督の現役ラストイヤーでもあり、牛島は星野を兄貴分として慕っていた。星野がチームを去ってからも牛島の活躍は続き、84年には29セーブでその年の最多セーブを記録。16セーブをマークした86年オフに就任が決まったのが星野監督で、これを誰よりも喜んだのが牛島だった。それまでもチームのために投げて、貢献してきた自負もある。これからは星野監督のためにチームを引っ張り、盛り上げていこうと考えてきたタイミングのトレード通告だった。このとき牛島は「僕が何かしましたか?」と尋ねたという。この「何か」は、チームにとってマイナスのことを指している。

 この牛島の発言は、当時のトレードへの意識を象徴しているようにも思える。近年はFAもあってオフに選手が移籍することも比較的ポジティブに捉えられるようになっているが、古くはトレード要員になることには“戦力外”という印象があり、実際にこうした事情からトレードで移籍した選手も少なくなかった。時は流れ、トレードに“戦力の補強”という意味が強くなり、牛島もロッテにとっては“補強”だったはずだ。

 トレード通告で一時は引退も考えたという牛島だが、2日後に移籍を承諾。ロッテ1年目の87年に24セーブ、26セーブポイントで初タイトルとなる最優秀救援投手に輝き、89年には先発に回って12勝を挙げている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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