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逆転野球人生

小野和幸、前年4勝右腕がトレード先の星野中日で覚醒して、下克上最多勝を獲得するまで【逆転野球人生】後編

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

ハマったハードコア選手操縦術


中日移籍初年度に覚醒した小野


「ビジネスなら、本当に選手が悪くて出すことになったとしても、嘘でも『いい選手だから惜しいけど』と白々しく言うのが本来の姿でしょう。それなのにプロ野球界は逆」

 20年以上前、落合博満は『日本プロ野球トレード大鑑』(ベースボール・マガジン社)のインタビューで、日本球界のトレード観に疑問を呈した。「トレードというのは、その商品をほかの球団へ売るということでしょう。だったら、売りたい商品にはいいイメージを付けておく必要がある。それなのに、トレードへ出す時って必ずと言っていいほど、その選手が良くない捉えられ方をする」と自身がロッテから中日へトレードされたときの喧噪を振り返る。

 1988(昭和63)年、そんなオレ竜・落合が四番を張るチームに、25歳の小野和幸は加わった。無名の通算15勝右腕と人気者で主力選手だった平野謙とのトレードにファンからは疑問というより、球団に対する批判の声も上がり、背番号13の先行きも春先から持病の右手指の血行障害で不安視される。だが、開幕2戦目の大洋戦で先発マウンドへ送られると、いきなり初回に屋鋪要の打球が右手親指の下を直撃するアクシデントにもめげず、名古屋のファンに挨拶がわりの無失点投球。両チーム無得点で迎えた9回裏、ゲーリーのサヨナラ弾で移籍後初勝利を完封で飾った。

 腕の振りを一瞬遅らせ、打者の間を微妙にズラし、130キロ台の直球とスライダーでていねいに攻め打たせてとる。カウント2-3からが真骨頂の粘りの投球で試合時間が長引き、記者陣も小野が投げる試合は3時間超えを覚悟したという。“フルハウス投手”と揶揄されようが、四番打者の落合は「後ろを気にすることはない。これがお前のリズム。あとは任せろ」とバットで援護した。西武では「(雨天中止で登板が流れ)肩の回復が遅いんで、助けられた面はあるんですけどね。肩だけは、ホント30歳みたいな肩してるんです」となかなか本心を見せない“新人類”の若者だったが、ボスの星野仙一監督は新入りにも容赦しなかった。

 終盤に小野の打席が回ると、「行けるか?」ではなく「行くぞ!」と尻を叩く。ベンチからは「内角に投げろ!」と怒鳴り、勝ち試合で途中降板すると「使わなくてもいい投手まで使わせやがって」なんて蹴り上げられる。令和なら完全アウトな闘将・星野のハードコア選手操縦術が、小野にはハマった。週べ88年5月2日号のインタビューでは、それぞれのチーム環境を比較して、こう答える。

「西武の場合だと、あれやれ、これやれと、スケジュールでやらされるという面があったでしょう。中日では、ボクをどういう風にして作っていくかというのがわからないから、自主性に任せてくれたんです。投げ込みなんかもやや少なめにしたり、かなり自由にやらせてもらいました」

 中学3年時、ホーム突入の激しいクロスプレーで相手捕手を吹き飛ばして負傷させてしまい、相手チームから「あの投手が出場する限りゲームはできない」と猛抗議を受け退場を命じられたこともある小野には、規律を求める管理野球より新天地の激しい星野野球が性にあった。

日本シリーズでは古巣に打ち込まれて……


88年、18勝を挙げて優勝に貢献した[ドラフト左から鹿島忠杉本正郭源治、小野、仁村徹]


 4月に3勝、5月1勝1敗、6月3勝1敗、7月3勝1敗、球宴出場を挟み8月2勝1敗、9月3勝……と故障で離脱した開幕投手の小松辰雄に代わり、背番号13は瞬く間に竜のエースとなる。移籍1年目は29試合(187回)で18勝4敗、防御率2.60。前年4勝からの下克上最多勝と最高勝率、さらにベストナインにも選出され、MVP投票では郭源治に次ぐ2位にランクイン(3位は落合)。ついにプロ8年目の覚醒で、星野中日の初Vに大きく貢献する。古巣・西武と対峙した日本シリーズでは、第1戦(ナゴヤ)と第5戦(西武)の先発マウンドへ。しかし、自身の特徴を知り尽くした相手に丸裸にされ、清原和博に150メートル級の場外アーチを浴びるなど、2試合で防御率8点台と打ちこまれ、チームも1勝4敗で黄金期の西武に一蹴される。

 なお、シリーズを通して西武の「一番・右翼」に座ったのは、小野の交換相手の平野謙だ。平野はペナントでも130試合フル出場して、自己最高の打率.303をマーク。ベストナインとゴールデン・グラブ賞のダブル受賞で完全復活を果たす。後年、自身の週べ連載コラム『人生山あり谷あり、感謝あり』で「あのすごいメンバーの中、30過ぎての移籍でよくやっていたと思いませんか。逆に、あのメンバーの中だから気を張ってやれたともいえるのかな。ベテランなのに、若手と一緒に怒られながらやっていましたからね」と最強西武ナインのレベルの高さを振り返っている。

 結果的にこのトレードは双方の球団がリーグ優勝を飾り、伸び悩んでいた若手右腕を覚醒させ、窓際のベテラン外野手を復活させた球史に残るwin-winの移籍劇となった。オフに小野は希望額には届かなかったものの、一気に3000万円アップの推定年俸4800万円で契約更改。30年間の住宅ローンを組み名古屋市内の3LDKマンションへ引っ越して、西武時代から乗っていた所沢ナンバーのマイカーとおさらばすると、新たに「ベンツ560」を購入した。まさに華麗な“逆転野球人生”を送った男。ただ、その後長く西武の鉄壁外野陣の一角を担った平野とは対照的に、小野の大活躍は儚い打ち上げ花火のように1年限りのことだった。

 平成が始まった翌89年は初の開幕投手を務めるも、1勝8敗と急失速。前年の好成績に気を良くしてスピードにこだわるあまり、フォームを崩してしまう。以降、持ち味の粘りの投球は影を潜め、90年に5勝を挙げるも、その後は一軍登板機会すら失い、31歳の93年限りで自由契約。中日時代の通算24勝のうち、移籍初年度だけで18勝を稼いだ“和製バレンズエラ”は、入団テストを受けて94年に千葉ロッテ入り。

ロッテ移籍時にはトレード相手だった平野[左]と並んで入団会見


 なお、ロッテ入団発表の記者会見で、「初勝利、初完封をした相手がロッテでした。縁を感じます」と挨拶した小野の隣にいたのは、なんと同じく西武を自由契約になり、千葉に新天地を求めた平野謙だった。あのトレードから6年、因縁のふたりは金屏風の前で、並んで再出発を誓ったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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