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プロ野球はみだし録

トレードのたびに進化した加藤博一。阪神では“江川キラー”、大洋では「僕は16年目の若手です」【プロ野球はみだし録】

 

交換のメンバーも成功したトレード


大洋は3球団目だった加藤


 加藤博一といえば、1985年に大洋(現在のDeNA)で“スーパーカー・トリオ”の二番打者として一世を風靡した姿を真っ先に思い出すかもしれない。ただ、加藤にとって大洋は3チーム目。それまで2度のトレードは、必ずしも新天地に乞われての移籍とはいえなかった。

 最初は1975年オフ、太平洋(現在の西武)から阪神へのトレードだった。ドラフト外の入団からスイッチヒッターに挑戦するなど試行錯誤も、戦力不足に苦しむチームでさえも一軍では通算3試合の出場にとどまり、2対2のトレードで移籍となる。阪神2年目の77年に一軍で初安打。79年にプロ10年目の初本塁打を放つ。その相手が空前の騒動を経てプロ入りした巨人江川卓だった。

 下積みの長い苦労人が“怪物”江川を打ち崩す図式の痛快さもあって、加藤は“江川キラー”として最初のブレークを果たす。翌80年に初めて規定打席に到達すると、リーグ5位の打率.314、34盗塁で盗塁王を争ったが、その翌81年に故障もあって急失速。復活のないまま、続く82年オフに大洋へ移籍となった。このときは野村収との1対1のトレード。野村は阪神で、プロ野球で初めて全12球団から白星を挙げた投手となっている。

 ちなみに、加藤が阪神へ移籍したときの交換メンバーも一定の結果を残した選手ばかり。加藤と阪神へ移籍した捕手の片岡新之介は控えながら存在感を見せ、投手の五月女豊と内野手の鈴木照雄は太平洋へ移籍したことで一軍に定着するようになっている。ともに結果的には成功といえるトレードだった。

大洋では86年、オールスターにも出場した


 大洋では1年で背番号を新人に譲る屈辱もあった加藤だが、これをバネに出場機会を増やしていき、移籍3年目の85年に再ブレーク。トリオの“2号車”として熟練の技を見せつつも、「僕は16年目の若手です」と実際の若手よりもハッスル、自己最多、リーグ3位の48盗塁を決めながら、自己、リーグともに最多の39犠打をマークした。翌86年に念願だった球宴に初めて出場も、後半戦で故障。その後はレギュラーには遠ざかったが、くさらずベンチで声を上げ続け、90年まで21年にわたる現役生活をまっとうしている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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