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背番号物語

【背番号物語】南海・広瀬叔功&巨人・柴田勲「#12」盗塁王“発祥の地”? 韋駄天たちが「12」で塁間を駆け回った時代

 

投手としての挫折が分水嶺に


巨人・柴田と南海・広瀬のツーショット


 1年は12カ月。午前と午後も12時間ずつで、ほかにも十二支など暦と縁が深いだけでなく、十二進法や12のものをまとめてダースという数詞になるなど、やたら日常生活に登場するのが「12」という数字だ。プロ野球の背番号では投手ナンバーである10番台のひとつながら、捕手が多い傾向を持つナンバー。ただ、エースの系譜としては「11」や「18」に、捕手ナンバーとしても「22」や「27」に圧倒されている印象があるのも事実だ。身近な数字ながらもプロ野球の背番号としては不遇ともいえる「12」だが、もっとも特徴的なのは韋駄天が多かったことだろう。特に1960年代を中心に、複数チームで快足を誇る好打者を擁していた。

 草分け的な存在は中日岡嶋博治。中日が初のリーグ優勝、日本一を飾った54年シーズン途中に入団して、60年オフに阪急(現在のオリックス)へ移籍するまで「12」で過ごした岡嶋は、58年から2年連続で盗塁王に。岡嶋とのトレードで阪急から移籍してきた河野旭輝も56年から2年連続で盗塁王となった韋駄天で、投手ナンバーの「11」を着けていた変わり種だったが、岡嶋から中日の「12」を継承して62年に盗塁王となり、プロ野球で最初の両リーグ盗塁王となっている。そして、奇しくも岡嶋と河野のトレードが成立した60年オフ、新たに「12」を背負った韋駄天が誕生した。広瀬叔功だ。

【広瀬叔功】背番号の変遷
#57(南海1955〜60)
#12(南海1961〜79)

 広瀬は南海(現在のソフトバンク)のテストを受けて投手として55年に入団。すぐにヒジを壊したことで志願して打者に転向、2年目の56年にデビューから7打席連続安打の離れ業を演じて、翌57年に遊撃の定位置をつかんだ。このとき着けていたのは「57」。プロ入りから60年までを過ごした背番号で、「12」の印象が強い広瀬だが、自身は「57」のほうに愛着があり、車のナンバーも「57」にしていたという。

 ただ、盗塁王は「12」1年目の61年が最初。以降5年連続の戴冠で、翌62年から外野に回ったこともプラスにはたらき、打率4割にも迫った64年には自己最多の72盗塁を決めている。広瀬の持ち味は数より堅実さ。この64年には31連続盗塁成功もあり、通算596盗塁もさることながら、通算盗塁成功率.829という数字は白眉といえるだろう。

 広瀬が外野に転じた62年、セ・リーグでも「12」の韋駄天が産声を上げた。ただ、まだ打者ではなく、やはり投手。法政二高のエースとして甲子園を沸かせ、投手として巨人へ入団した柴田勲だ。

7年“連続盗塁王”


 広瀬と異なり、プロ1年目から「12」を背負って開幕2試合目の先発マウンドを託されるなど期待を受けた柴田だったが、白星のないままシーズン途中に投手として挫折。まず内野手に転向して、2年目の63年からは広瀬と同じ外野に回った。やはり広瀬と同じく右打者だった柴田だが、打者に転向すると同時にスイッチヒッターにも挑戦。これでレギュラーに定着して、66年に46盗塁で初の盗塁王に輝いた。

 翌67年にはトレードマークの赤い手袋を着けて自己最多の70盗塁で2年連続の戴冠。つまり、61年から65年まではパ・リーグで広瀬、66年から67年はセ・リーグで柴田が盗塁王となり、7年連続で「12」が“連続盗塁王”となっていたことになる。このうち62年は河野と広瀬が両リーグで「12」の盗塁王となっているから、「12」は韋駄天を象徴する背番号だったのだ。ただ、69年を最後に柴田が「7」に変更。「12」で3度の盗塁王となった柴田は「7」でも同じく3度の戴冠、阪急で福本豊も「7」1年目の72年にシーズン106盗塁を決めて、「7」が新たに韋駄天の象徴となっていった。

【柴田勲】背番号の変遷
#12(巨人1962〜69)
#7(巨人1970〜81)

「12」が韋駄天ナンバーの座を「7」に譲ったのは、60年代の前半は盗塁王が正式なタイトルではなかったこともあったかもしれない。64年に広瀬が活躍したことが表彰の契機となったともいわれ、いわば盗塁王の“発祥の地”でもある「12」。21世紀に鈴木尚広が柴田の後継者となったこともあったが、韋駄天の印象が希薄になっているのは、少し寂しい。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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