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プロ野球回顧録

長距離砲ぞろいの巨人打線で異彩 絶妙なポジショニングでチームを救った「名二塁手」は

 

独特のポジション取り


ゴールデン・グラブ賞を4度獲得した二塁守備は絶品だった仁志


 1990年代から2000年代にかけての巨人は長距離砲が並ぶ重厚感あふれる打線だった。12球団トップの203本塁打を記録し、日本一に輝いた00年の「ミレニアム打線」は江藤智松井秀喜清原和博高橋由伸、代打にマルティネスが控えていた。その中でリードオフマンとしてチームを引っ張り二塁の守備でも独特のポジショニングで好守を連発して異彩を放ったのが、仁志敏久だった。

 仁志は茨城県の名門・常総学院高で1年からレギュラーを獲得し、1年夏に準優勝に輝くなど甲子園に3年連続出場。早大では主に遊撃で主将としてチームを牽引し、社会人野球・日本生命を経て、96年ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団した。

 幼いころからあこがれ、前年に引退した原辰徳(現巨人監督)の背番号「8」を継承し、96年に打率.270、7本塁打をマーク。巨人の野手で原辰徳以来15年ぶりの新人王を受賞した。171センチと小柄な部類だが、パンチ力があった。04年に自己最多の28本塁打を放つなど、シーズン20本塁打以上を3度マークした。打率3割に到達したことが一度もないのは意外だが、勝負どころで一発を放つ「新たな一番像」を確立した。

 打撃だけでなく、二塁の名手としても知られた。洞察力に基づく独特のポジション取りと卓越したグラブさばき、どんな体勢からも安定した送球は際立っていた。ゴールデン・グラブ賞を4度獲得。印象深いのが02年の西武との日本シリーズだろう。第1戦の初回、二死一、二塁のピンチで和田一浩の中堅に抜けたかと思われた打球を、あらかじめセンター寄りの絶妙なポジションに守って二ゴロにする。この一打が抜けたら勝負の行方は分からなかった。和田はこのシリーズで15打数無安打と沈黙し、巨人は4連勝で日本一に。「シリーズの流れを決めたプレー」と絶賛された。

 仁志は引退後の14年に、週刊ベースボールの「二塁手論」でこう語っている。

「セカンドの面白味として『ポジショニング』が挙げられます。最近はその都度考えて位置を決める選手が増え、ヒット性の当たりを処理する姿には非常に興味をそそられます。人によってはオーソドックスに守ったほうがいいと言う人もいますが、相手打者をよく見ていれば必然的に同じ場所にいることはなくなるはず。データを踏まえて守っていればなおさらです。要するにこれは観察眼。人によって動作や狙いは違います。よく相手を見ていれば誰にでも少なからず感じられるものだと思います。

「『極端に動いて打球が逆に来たらどうする』という安易な考え方をする人もいますが、打ち取った打球に関しては逆に飛んでも対応できるように意識しておくことです。また、極端な場所で打球を処理したように見えてもそこに初めからいたわけではなく、相手をよく見ているからスタートが違い、より広く守れることができた結果なのです」

恩師を超える指導者に


昨年からDeNAのファーム監督として三浦大輔監督[左]とタッグを組む


 攻守の中心選手として活躍していたが、原監督が2度目の監督就任した06年に打撃不振もあり64試合と出場機会が激減。自らトレード志願して球団も了承し、同年オフに小田嶋正邦と金銭トレードで横浜(現DeNA)に移籍した。その後、米国独立リーグを最後に10年限りで現役引退。NPBの14年間で1587試合に出場し、打率.268、154本塁打、541打点、135盗塁。通算1591安打を積み上げた。

 ユニフォームを脱いで10年の充電期間を経て、21年からDeNAのファーム監督に就任。常総学院高の監督で恩師の木内幸男氏が20年11月24日に亡くなった際は、「ちょうど僕や、島田直也さん(常総学院高監督)が監督になるタイミングで亡くなられたというのは、何か、教え子の代に『これからはお前らがしっかりやってくれよ』とバトンを渡されたような、そんな気もします。もちろん、島田さんも僕も、木内さんの考え方がベースとなって、今があるので。そこに自分たちのプラスアルファを加えて、木内さんを超えられるように、一歩目を踏み出していこうと思います」と決意を新たにしていた。

 今年もファーム監督として、一軍で活躍する若手の育成に全身全霊を注ぐ。

写真=BBM
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